october sky〜遠い空の向こうまで〜

謎主婦・風信子(ヒヤシンス@nobvko)のブログです。宜しくお願いします♪

2008年12月

 オバマ次期大統領が来年1月に行なわれる就任式で、「リンカーンの聖書」を使用することが昨日のNHKニュースで報じられていました。

 

奴隷解放を謳ったリンカーンが、大統領就任式で使ったという聖書。

その聖書をオバマさんが使うのは、あらゆる立場のアメリカ国民の『融和』を目指すことを表現している、ってニュースで言ってましたが、ちょっと違うと思った我が家。

 

確かに、共和党の偉大な大統領が誓いを立てた聖書を民主党員のオバマさんがわざわざ使うというあたりは、単に人種の垣根を越えたという類似性にとどまらない『融和』へのメッセージが込められていると思えなくもありません。

でも、このまえ調べたにもあるとおり、リンカーンが大統領職にあった時にアメリカが経験した内戦『南北戦争』は、奴隷制を維持したい南部の州が合衆国から離脱して連合国を造り南部民主党政権を樹立、北部の合衆国(共和党政権)に戦いを挑んだというものでした。

この南北戦争の構図を踏まえて考えると、オバマさんには

 

リンカーンに楯突いたものは「反合衆国勢力」であった。

そしてリンカーンは「反合衆国勢力」による抵抗を断固排除した。

そのリンカーンと同じ聖書で宣誓をするオバマ政権に対する反対は「反合衆国勢力」による抵抗と見なす。

 

というメッセージを全米に送る意図があるように思えてしまうんです。

 

そういえば、オバマさんの8月の大統領候補指名受諾演説には、


それよりも、米国精神、つまり「米国の約束」こそが未来を切り開くのだ。違いを超えて、われわれをひとつに束ねるのだ。これこそが、われわれが受け継いできたもっとも偉大な財産だ。

 

という節があったようです。

「米国には夢を追求する自由がある。そんな『米国の約束』こそ、人々の違いを超えさせ、米国をひとつにすると言うオバマさんの夢は「米国をひとつにしたい」ということ。

リンカーンの聖書を持ち出して、異なる意見は許さないよ!っていう空気を醸し出したいんじゃないでしょうか。

 

畏れ多くて歴代の大統領が誰も使えなかった、というか使う気にもならなかった(?)歴史的遺産であるリンカーンの聖書を、自分たちのイメージ作りの為に使えちゃうオバマさん。

やっぱり、なんだかなぁ・・・と思ったワタシですが、今回のニュースをnobukoの夫と話していて、改めて気がついたんです。

南北戦争に勝った北部、つまり奴隷制を解放したのは、民主党ではなく共和党だったってことに・・・。

 

思い込みの激しいワタシが学生の頃良い成績が取れたのは、質問に要領よく解答できたから。

興味のあることはそのまま頭に入ってくるんですが、そうでないことがらについては深く考えなかったんですよね・・・。

これは今もです。

 

改めて世の中が、憶えるだけじゃ駄目だ、とゆとり教育に変わっていったことは、良い方向だったなと実感するワタシでした。(笑)

 

 

2009年3月18日追記:

アメリカのラジオ番組人気ホスト・リンボウ氏への、オバマ政権の反応について、3〜4日前の産經新聞「緯度経度」で読みました。

 

これってやっり「オバマ政権に対する反対は『反合衆国勢力』による抵抗と見なす」ということになるじゃないでしょうか。

嫌な空気です。

 

2009年3月19日追記:

今朝の産経抄読みました。

この期に及んでの金融組織エリートへの巨額ボーナス支払いに対する、アメリカ国民の怒りはわかります。

でも、それをどうにかするために、もしもオバマ大統領が超法規的措置を講じたら、そちらの方がも〜っと恐いワタシ。

法の不遡及」の原則どうなっちゃうの?って

 

 12月17日(月)

 

またブルーマンディー。

青空の広がる寒い零下6度の1日。

100点をアルゲブラで取れたのですが、

100点取る自信ありで99点だった男子が、

やっかみで私のことなんか言ってたみたい。

そーいうのに限って、伸びないのよ。

人のこと言う前に、少しは自分のことに be キャルホァ!

 

さてと、帰ってからYutaka君たちと一緒に、おもち3ケとチョコレート10個くらい、

クッキー3個、アイス一皿食べた!

 

12月18日(火)

 

あぁ、MIAMI行きが一週間後にひかえてるっ。

学校は特別スケジュールでした。

音楽会があったから。

今、ESLでレポートを書いてます。

私はコマネチの・・・。

勉強はうまくいってると・・・思います。ハイ。

 

12月19日(水)

 

Shokoからクリスマスカード

さて、今日はヤマトを遅れて見ました。

つまり寝ぼうしたのだ

だから機嫌悪!!

学校はいつものとおり終わろうとしたのに、

こともあろーにE.S.L.でクリスマスバケーション中、

5人のレポートを作ってくるように言われてガーン。

明日、ガムバッテ3人のレポート書かなくちゃ!!

雪が降り積もり、明日の朝は雪かきしなくちゃ!!

 

お母さんのブーツをはいて「あ!小さい!失敗したー」とアセっていたのダ

ホッ

 

12月20日(木)

 

E.S.L.のレポートを必死で書き上げた!

よかったーー!!

さてと、明日はたーいへんなlast day!!

数学と理科のテスト&クリスマスパーティ&体操!!

コマネチみたいなのをするので、困ってしまう!

さっそく家で自主トレーニング(?)

社会の初参加のテストは、まぁまぁでしたヨ(うれし

雪も止んで、割と暖かい一日でした。

 

12月21日(金)

 

今日で学校は終わり!

But 大変な1日であった!

テストはうまくいったケド、やるまでキンチョーしてたし、

体育はうまくいかないし、最後にはパーティーもあって、

食べ過ぎてキンチョーのためにお腹が痛くて大変だった。

ケーキは甘くておいしいのもあったケド、

にがくて食べられないのもあった。

E.S.L.のクイズ大会で、R.C.のスペルの女性をロザリン・カーターって当てられて、よかったー。

当たるのが1つもないのって、イヤだもんにィー。

家では疲れがドッと出て寝てしまい、TakahashiさんやOkumuraさんがいらして、

出て行くのがハズカシかったー。

でも7:00で後4〜5時間寝て待つのもイヤだったし、

出て行って、遊んで、たくさん食べて、

体操したらブリッジができるようになった

 

12月22日(土)

 

勉強は数学のホームワークonlyで、その他、naokoをローラ宅へ送って、

ケーキを買って、そしてNew York City にツリー等を見に行き、

本屋で絵本を買いました。

とってもキュート!!
よかった
 
12月23日(日)
 
今日、『少女フレンド』を買いました。
さてとォ、旅行のためにパジャマは洗い中なので、
今、あのモンペジーパンと穴あき茶色セーターでいます。
添削はゆっくりと、でも必死に今月分の数学を終了。
あと国語を明日、あさってとやって、Book Reportもやるつもりでいやす。
では、おやすみー!!
 
台所と洗面所の水切りが、圧力器具使用で良くなった
 
12月24日(月)
 
さて、今日はクリスマスイブ!
おいしい牛肉を食べました。
リンゴサラダは私が作った!
たくさん食べて、うつ病をフッとばした。
ついでに編み物をしたくなって、チョッキを半分作ったの。
 
Nariからレター。
 
12月25日(火)
 
グリーンクリスマス。
ちょっと残念だったケド、でも寒くなくっていいや!!
とくに今日は暖かかった。
一生懸命毛糸で編んで、後少し、ってところまで出来た!
But ゆるく作ってしまったみたいで、ちょっとブカブカ。
あーあ、残念。
後で工夫しよう。
明日からフロリダ行き!
うれしーな。
風邪で少ーし頭痛いケド、添削も終わったし!!
 
 
2008年12月25日追記:
私は足が大きくて、アメリカに行くまではずっと靴選びに苦労しました。
あちらに行ったら、自分のサイズが普通に売られているので大感激!
かわいいデザインのものが履けるって、本当にうれしかったんですよね。
以来、あちらの靴をずっと愛用しています。
(革製には高い税金が付くので困っちゃうんですけどね☆)
 
大きな四角いレンガ作りの学校の片隅には、体操のための大きな部屋があり、あん馬や吊り輪、平行棒など、本格的な用具が備え付けられていました。
運動音痴なワタシには、かなり厳しい(笑)体育の時間。
全然できないワタシの隣で、体操選手のようにくるくる回ってた女の子たち。
すごいな〜と感心してました。
 
母のクリスマスメニューにはローストチキンはなかったんだなと、今頃思い出したワタシ。
でも、あちらで憶えた骨付きチキンのトマトスープはよく作ってくれました。
美味しかった!
昨日のイブには、次男がリクエストしたローストチキンに挑戦!
『男子ごはん』という番組で紹介されていたものなんですが、香辛野菜を刻んだものとハーブ、にんにく、オリーブオイル、お酒、酢などに丸ごとチキン(小)を一晩つけこんで、翌日、野菜をチキンのお腹につめ直してからオーブントースターで1時間ほど焼きました。
手軽で、おいしかったです♪
今朝はその骨からとったスープで、おじやを作って食べました。
もち、奥園流♪(笑)
 

 12月10日(月)

 

昨日、「紅白歌のベストテン」みようと思っていたら、起きられなくって、

日記もつけませんでした。

 

今日は色々と予感が当たりまして

 

*もうそろそろ、非常訓練のサイレンが鳴りそう。

*この辺で、指されそう。(E.S.L.のReading中)

*workだろうな。(E.S.L.)

 

これ、当たっちゃったのダ。ふっしぎィー。

うれしいことに、Englishの時間、ケーキとジュース食べたの。

とってもおいしかったー

チョコレートチップが入ってたのラ。

でも、なぜケーキがでたのかなぁ・・・。

 

テレビで日本の戦争のことやってた。

Noraサマからお手紙サンキューー!!

Tetsuyaのあほんだ〜ら!!

ねむ〜い!!

 

12月11日(火)

目が悪くなりつつあるそうなので、光には十分注意しなくっちゃ!!

”もっと光を!!”なのだ。

今日はついてない1日。

まぁ火曜日は、一週間中いちばんやな日かもねェ。ウン。

明日はたーいへん!!

特別プログラムなのだからネェ。

フム。平気なのかなぁ??

まぁやってみなくちゃわからん!

がんばろーーー。

明るくえがおダ!!でも、顔で落ちる!

髪の毛バサバサしてるのは、冬の摩擦のせいだろうね。

 

12月12日(水)

 

恐怖のプログラムはスララララーーーと進み、

終わったので一安心。

5periodからいつもどーりの授業を受けて、帰ってきたのですが、

一つだけひっかかることがあるのですヨ。

今日、ろうかで会った(顔を忘れてしまってたのですが)知ってるらしい女の子が、私のバスの番号のことで聞いてきて、帰り会おう、らしきことをサッと言って、行っちゃったのですが、帰りはあのとーり、大混雑。

会うにも、探してたらこっちがバスをミスってしまうし・・・。

どーしたかなぁ。

しょうがないことだったケド、スミマセーン。

 

ドーナツ買いにいったら、車がストッピ。

あーあ、苦難のワンアワーであった!

 

12月13日(木)

 

フーッ。

朝、Mrs. Glennからパスをもらってたのに、

Mr. マシーの教室の方へ行ってみたら、

顔見知りの子がいたので「まだね。ホッオドトリアムで待っていよう♪」と、

引き返して、オドトリアムの中でやってる映画を見てたら、3period目になっちゃって、

そしてその場の友達に聞いたら、このグループは、Mr. マシーのグループではなくって・・・。

Main Officeに行って、Mrs. GlennとMr. マシーに会って、普通の授業を受けることになりやして、数学から受けたのでする。

ホームワーク出たのだ。

お弁当は持ってないから買ったのですが、あわててたなぁ私。

10セントの牛乳と25セントのおかずで50セント出したのに、おつりが5セント。

あーあ。

でもお母さんいわく、「その分、前に借りがあったのよ」

ハイ、今度からは気をつけます。

帰ってから、今日は寝ないで卓球やおつかいや勉強やってたら、Okumuraさんたちがいらした。

 

今日で「ヤマト」、4日目。

毎朝7:00から観るのが楽しみ!!

今日は雪とアナライザーが、星へおりた話。

 

12月14日(金)

 

「クルミ割り人形」を観てきました。

舞台の大きさと背景に、驚きました。

冬の風景、大きなクリスマスツリー、お菓子の夢の国・・・。

踊っている人が、もう一歩って感じがなぜかしました。(変かな・・・?)

 

日本からの通信教育こないので、明日は今日出た数学のレポート書きをしませう。

Tetsuyaのあほぽんたん!!

 

12月15日(土)

 

ショック!

明日(今、夜中の1時だから今日だわ)観るはずだったショーが、

今日だった(昨日)こと。

ガーーーーーーーーーーーーーーン。

ショック。お金もったいなーーーい(??)

それよりなにより、ショー観たかった!!!

 

通信教育まだこーーーん。

 

12月16日(日)

 

朝遅く起きてから、映画を観にACの近くの映画館へ行き、その後、クリスマスギフトをみに、SearsやMacy'sへ行ってきて、くったくた。

お昼はSearsの食堂で食べました。

明日からまた学校。

日曜はイヤだな。

つかれるし、気分悪ーい。

 

2008年12月23日追記:

「ヤマト」は「宇宙戦艦ヤマト」。

「紅白歌のベストテン」や「大河ドラマ」などを流していた週末オンリーの日本人向けチャンネルではなく、朝、テレビをつけたら普通に流れていた番組です。

最初見たときはかなりビックリ。

古代進たちが和室(!)で食べてた海苔のおにぎりが「チョコレートケーキ」になってたり・・・。

同級生の男の子たちは、すっかりアメリカのアニメだと思っていたようです。(笑)

 

「クルミ割り人形」は、クリスマスシーズンの定番ミュージカルです。

広い舞台の中央に、天井高くそびえるもみの木が飾られ、

冬の幻想的なシーンが、次々に繰りひろげられていました。

 

ちなみに「通信教育」とあるのは、真剣ゼミとかZ回のことではなく(笑)

義務教育中だったワタシたち姉弟妹に、日本の文部省が毎月送ってきてくれていた添削問題のことです。基本的な問題が載っていました。

 

それから自分でも驚いてるのがランチ代。

35セント、ってことは35円〜!?安い!

その頃のレートで言えば70円くらいなんでしょうけど、でもグレービーソースのかかってるターキーとか、コーンやグリーンピースのバターいためとか、本当に美味しかったんですよ。

あの味思い出すと懐かしくなってきちゃって、また食べたくなってきた食いしん坊のワタシです。(笑)

 

 モンゴメリはアン・シリーズにうんざりしていた。

 結婚して仕事を辞める一連のプロットは、望んで書いていたものではなく、大衆受けするものを意図して無理に書き続けていたものだ。

 

松本侑子さんを始めとする内外のモンゴメリ研究家に一致してみられるこのような見解が、『赤毛のアン』ファンの方々の常識になったように見える今日この頃。

 

しかし、10代の頃にアン・シリーズを読んだファースト・インプレッションや、その後、折に触れて読み返す度にこころに生じるものからは、そのような説に全く納得がいかなかったワタシ。

 

調べてみたい・・・。

 

1993年に出版された松本さんの『赤毛のアン』の翻訳本の「あとがき」を読んで以来、ずっと心に引っかかっていましたが、当時は長男が生まれたばかりで、その後次男にも恵まれ、やがて義母の介護が始まったワタシにはその為の時間はなく、いつしかそのことは忘れ去られていた---はずでした。

最近になってゆとりが生まれたワタシのこころに火を点けたのは、好きで覗いていた平成仮面ライダーのプロデューサー氏のブログ

氏は、松本さんと同様、働く女性としてのアンに魅了されていたようなのです。

再び自分の疑問点を思い出したワタシは、遅まきながらモンゴメリの生き方を調べ始めました。

 

アンのように感受性豊かだったモンゴメリ。

ゆえに、第一次世界大戦や親友の死、夫の精神の病や大恐慌など、次々に襲い来る困難に人一倍苦しんだようですが、創作活動はそのような苦難に打ち勝つための原動力でした。

そんな彼女が出版社に乞われて描き続けたと言われるアン・シリーズ。

出版順で4作目にあたる『アンの夢の家』は、ワタシの一番のお気に入りなのですが、その作品は3ヶ月半という短い期間で一気に描かれたものであり、モンゴメリも日記で「一番の自信作」と言っていたことを知りました。

それはモンゴメリが世間を意識しないで描くことが出来た、彼女の本質的世界だったのです。

 

本当はその世界を詩に表したかったけれど、その方面の才能は与えられていないことを自覚していたモンゴメリ。

詩人を志す二人のペンパルとの40年に渡る文通は、彼女のこころの励みであり慰めでした。

 

晩年には再び『アンの夢の家』の前後にあたる『アンの幸福』と『炉辺荘のアン』を執筆。

本当はもっともっとアンを描いていきたかったのに、第二次世界大戦の開戦と、腕を怪我してペンを持てなくなってしまったこと、そして最愛の次男が招集されることが決定打となり、創作どころか生きる意欲を失って67歳で亡くなりました。

 

 

 

図書館等で入手可能な資料を基にしてワタシがブログとMYサイトで表現したことは、ざっとこんな感じになります。

先日ようやく、モンゴメリの最後の日記を入手することが出来ました。

なんだか直接話しかけられているようなモンゴメリ特有の文体で記された彼女の日記。

読み進めて驚いたのは、『幸福』や『炉辺荘』へのモンゴメリの想いが、ワタシの想像以上であったことでした。

 

 

 

 I finished Anne of Windy Willows today.  I have enjoyed writing it.  I think I recaptured the old atmosphere reasonably well but that is one of the things a writer cannot judge for herself. (Nov.25, 1935)

 

今日、『幸福』を書き終えました。楽しみながら書きました。あの頃の空気をかなりうまく捕まえていると思いますが、その点は、作家が自分でジャッジできないことの一つでもあります。【風信子(ヒヤシンス)訳】

 

 

I have been reading over the MS. of Windy Willows and find it better than I had thought it.  (Dec.3, 1935)

 

『幸福』の完成稿を読み返してみて、思った以上によく出来ていると思います。【風信子(ヒヤシンス)訳】

 

 

On this hot dark muggy day I sat me down and began to write Anne of Ingleside.  It is a year and nine months since I wrote a single line of creative work.  But I can still write.  I wrote a chapter.  A burden rolled from my spirit.  And I was suddenly back in my own world with all my dear Avonlea and Glen folks again.  It was like going home.  But my eyes bothered me a good deal while writing.  (Sept.12, 1938)

 

こんな薄暗くて蒸し暑い日に、私は座って『炉辺荘』を書き始めました。1年と9ヶ月ぶりに創作に値する1文を書いた訳です。でも私はまだ書けるようです。一章を書きました。心の重荷が取り除かれました。そして私はすぐさま再び、愛するアヴォンリーとグレンの人々のいる私自身の世界へと戻りました。まるで家に戻ったように。でも私の両目は、書いている間中、私を悩ませました。【風信子(ヒヤシンス)訳】

 

 

 

Wrote another chapter today and hated to stop.  It is heavenly to be able to lose myself again in my work.(Sep.13, 1938)

 

今日もうひとつの章を書き上げ、そのまま書き続けていたいと心から思いました。再び仕事に没頭できるなんて天にいるような心地がします。 【風信子(ヒヤシンス)訳】

 

 

 

I had another letter today from a woman who had just read Windy Poplars.  She said in conclusion "Thank you for the simple charm of people, humor and quaintness---for a wisp of fairyland---for the scarlet, purple and blue!"

When dreariness and fear threaten to overwhelm me I shall remember this letter and say to myself, "Take heart my child.  As long as you can bring a little delight or comfort into the lives of others life is worth living.  And there are countless lives waiting for you yet in the years of eternity and in stars yet unborn."(Sep.24, 1938)

 

今日はまた別の、『幸福』を読み終わったばかりの婦人から手紙をいただきました。彼女は末尾で「人々の素朴な魅力やユーモア、そして古風で趣のある世界をありがとう---それは妖精の国の一束のようでした---深紅と薄紫と青色の!」と言っていました。

侘しさと恐れに圧倒されそうになる時、私はこの手紙を思い出して、自分にこう言ってやるつもりです。「元気を出しなさい。他の人々の人生に喜びや慰めを少しでも運び込むことが出来る限り、あなたは生きる価値があるのです。そして永遠なる時の中、いまだ生まれえぬ者たちや、いまだ生まれ得ぬ星々の、数えきれない命たちがあなたを待っているのです。」【風信子(ヒヤシンス)訳】

 

 

I have about half of Anne of Ingleside written.  Some days I enjoy writing it---other days I am just draggy enough.(Oct.17,1938)

 

『炉辺荘』の約半分を書き上げました。書くことが楽しい日もあり---ずるずると重たく感じられる日もあり。【風信子(ヒヤシンス)訳】

 

 

 

I finished Anne of Ingleside today---my twenty-first book.  I always wonder now if I will ever write another one.  There are lots I want to write---but I am getting a little tired.  I love to write still---I will always love it.  But---(Dec.8, 1938)

 

『炉辺荘』を書き上げました---私の21冊目の本。また別のを書くことがあるのかしらといつも思います。書きたいことはたくさんあるのです---でも、私は少し疲れやすくなりました。書くことをまだ愛しています---これからもそうでしょう。でも---。【『風信子(ヒヤシンス)訳】

 

 

今回手に入れた日記から、『幸福』と『炉辺荘』の執筆期間の詳細が判りました。

  • 『幸福』は1935年8月12日〜11月25日の3ヶ月少々で書かれ、1936年の1月27日に校正が終わっている。よって5ヶ月少々で仕上がっている。
  • 『炉辺荘』は1938年9月12日〜12月8日の3ヶ月弱で書かれ、1939年の1月16日に校正が終わっている。よって4ヶ月少々で仕上がっている。

 

なんと『幸福』と『炉辺荘』は、あの『アンの夢の家』の3ヶ月半より短い期間で書かれていたのです。

モンゴメリがマクミランへの手紙に『幸福』を「5ヶ月間で書いた」と記していたのは、校正の期間を含めてのことだったようです。

また、『炉辺荘』を「九月一日に新作の執筆に取りかかり、大晦日に完成した」と書いていたのも、校正期間を含めてのものであり、手紙向けにわかりやすい省略がなされたと思われます。

 

1916年6月16日〜10月5日の3ヶ月半少々で書かれ、1916年の11月24日までに校正が終り、5ヶ月少々で仕上がっている『夢の家』。

従って、校正期間も含めてみても、モンゴメリが一番速く描いた作品は『炉辺荘』ということになります。

彼女の晩年の2作も『アンの夢の家』と同様、心の赴くままに一気に描かれたものだったことが、これではっきりしたように思われます。

 

そしてなによりワタシが嬉しかったのは、モンゴメリの最後の住処である「旅路の果て」に『アンの夢の家』の表紙絵が飾られていたことを今回の日記で知ったこと。("The Selected Journals of L.M. Montgomery" VOLUME V: 1935-1942     p. 14)

出版社から届けられた初版本を手にしたモンゴメリは、その表紙絵を評して「25才のアンが17歳の娘のように若く描かれ過ぎている」と言っていました("The Selected Journals of L.M. Montgomery" VOLUME II: 1910-1921     p. 222)が、その表紙絵の原画をずっと大切に飾っていたんですね。

やっぱり『夢の家』は最後まで、彼女の一番のお気に入りだったということではないでしょうか。

 

 

                  

 

 

モンゴメリの最後の日記を読みながら、たまたまワタシが聴いていたのはアカペラのクリスマスソング。

大学の頃買ったLP盤をカセットに録音し直したものなんですが、”An Evening in December” とか"Starlight"とか、聴いているうちにこれってまるでアン・シリーズの世界のようだ、と思い始めました。

例えば”Have Yourself A Merry Little Christmas”という曲など、まさにそのものじゃないかと感じられたのです。

 

Have yourself a merry little Christmas
Let your heart be light
From now on our troubles will be out of sight

 

ささやかなクリスマスを楽しくお祝いしましょう

あなたの心にも光を

心を煩わすものはもう見えなくなる


Have yourself a merry little Christmas
Make the yuletide gay
From now on our troubles will be miles away

 

ささやかなクリスマスを楽しくお祝いしましょう

クリスマスを陽気なものに

さあ今から 心を煩わすものは遠い彼方へ

 

Here we are as in olden days
Happy golden days of yore
Faithful friends who are dear to us
Gather near to us once more

 

ここで私たちは懐かしい日々に戻るのです

幸せだった黄金色のあの頃に
愛しい忠実な友が皆

今一度 私たちのそばに集い来る


Through the years we all will be together
If the fates allow
Hang a shining star upon the highest bough
And, have yourself a merry little Christmas, now

 

これからの年月も私たちは共にいよう

もし運命がそれを許してくれるなら

高い梢の先には輝く星

さあ、ささやかなクリスマスを楽しくお祝いしましょう

 

(「洋楽歌詞検索のTube356」様より引用したものを、風信子が私家版翻訳。

 

 

ネ、そう思いませんか?(笑)

それから"The New Twelve Days of Christmas"という曲を聴いていて気づいたこと・・・それは・・・。

 

♪A child born to set the world free♪

 

マシューやマリラ、そしてアン・シリーズに登場する人たちだけでなく、読者にとって、そしてモンゴメリ自身にとっても、アン・シリーズで描かれたアンという存在は、この歌のchildだったんだな、って。

 

今ごろなんなんですが。(笑)

 

 

「女性が子供を産んでも働き続け、キャリアアップしていく秘訣とは?」

 

こんなタイトルの特集記事が、昨日の産經新聞に掲載されていました。(*)は風信子(ヒヤシンス)の追記。

 

50代とは思えないほど若々しい石野伸子・産經新聞編集委員が、ワタシと同年代の、ワタシと同様少しお疲れ気味な表情(失礼!)の(株)オールアバウト取締役兼All About編集長・森川さゆりさんと対談されています。

 

森川「《前略》結婚しても子どもができても、仕事は続けていきたいと思っていました。女性は何事にも欲張りですから。《後略》」

 

石野「男女雇用機会均等法が施行されたのが1988年、女性の生き方とワークライフバランスが変化して、企業や社会、そして男性の理解も変化していると思います。欧米では、働く女性の多い国ほど出生率が高い!といったデータもあり、もしかしたら、これからの日本もそうなっていくのかもしれませんね。」

 

森川「自分も今、経営側にいて感じるのは、出産しようが子どもがいようが、企業に『この人には働いてもらいたい!』と思わせるような人がいるということです。《後略》」

 

【中略】

 

森川「また、女性にとって働く理由は、単に出世欲や経済的なことだけではないと思うのです。」

 

石野「とはいえ、まだまだ女性管理職は男性に比べて少ないですよね。」

 

森川「私もよく『女性の上司は初めてです』と言われます。」

 

石野「《前略》長く続けていくことで見えてくるものがあると思うので、すぐにやめてしまうのではなく、続けていくことが大切だと、働く女性たちには伝えたいですね。」

 

この特集が、フジサンケイと大和証券グループのタイアップ広告だということを重々承知した上で、あえて言わせて頂きます。(笑)

 

石野編集委員は、男女雇用機会均等法が施行されてから女性の生き方が変化したとおっしゃってますが、ワタシはそれ以前から、女性が外で働きやすくなっていたと思います。

ワタシが小学生だった頃、つまりは今から30年前、女先生は皆さん子どもが生まれても働き続けてました。

そして日教組のストライキにも積極的で(男先生以上に!)授業が無くなっちゃう日が度々でも「ストライキは先生の当然の権利なのよ」って生徒たちに説明されてましたっけ。

 

しかしこの20年の、一般企業や社会、男性の側や女性の生き方の変化を喜んでいるご様子の石野編集委員。

 

それほど「変化すること」の重要性に気づいておられる石野委員ならば、なぜ赤ちゃんを授かった時にご自身が変わろうとはなさらなかったんでしょう。

働き続けたいと思う自分自身を、変化させてみようとは思わなかった・・・?

 

「自分以外の変化を勝ち取り、自分自身は変えない」委員の姿勢は、まるであの頃の日教組の女先生みたいだと感じるワタシ。

きっと「働く女性の当然の権利なのよ」と思ってらっしゃるに違いありません。

 

ワタシの周りを見回す限り、こう言っては何ですが、森川さんがおっしゃるような『企業が「この人には働いてもらいたい」と思うような優秀な女性』は皆さん、妊娠したら仕事を主体的に辞めていらっしゃいました。

あるいは結婚した時に勤めを辞めたけれど、赤ちゃんに恵まれなかったのでまた働き始めたという方も結構いらっしゃいました。

そんな女性は、決まってこんな風に言ってましたっけ。

 

「私は育児と仕事を両立できる程器用じゃないから。」

 

これが謙遜の言葉であることは誰の目にも明らかな程、彼女たちは職場で重宝される人材でした。

逆に「子育てと仕事は両立出来ると思う!そうすべきだ!ワタシは出来た!」なんて本気でおっしゃってる人ほど、大したデリカシーは持ち合わせていないと感じるワタシ

フルの仕事はそんな片手間にできるものではありませんし、それはもちろん子育てにも言えることですからね。

 

いや、ワタシは出来る!出来た!というお人がいたら、実際のところは実母や夫、その他もろもろの手助けと、様々な要因が重なり合って「両立」が成り立っていたのに、その幸運への感謝より、自分が出来たことを外にアピールしたいだけの人、って思うワタシ。

そういう母親が増えて、誰が子育てに責任を持つのかがあやふやな社会が、徐々に作られていったと思うんです。

この20年の間に・・・。

 

どちらも、ではなく、どちらにプライオリティを置くかがわかっている女性(ひと)は、謙遜を知り欲張りではない、ということでしょうか。

それとも森川さんが「女性は何事にも欲張りとおっしゃったのも、森川さん一流のご謙遜!?

なら「女性は」ではなく「私は」と言ってほしかったなぁ。

 

かく言うワタシも、女性が結婚しても働き続けることには少しも異論はございません。

ワタシ自身もそうしましたし、子を授かるかどうかは誰にもわからないことですから。

 

だからこそ、それまで一生懸命働いてきたのに、子を授かった途端に石野委員のような女性上司から「すぐに辞めてしまうのではなく」なんて諭されちゃったら、子育てに専念しようとする自分の決断を頭っから否定されたようで、なんだかガッカリしちゃうのではと思うワタシ。

そして社会がそんな助言者ばかりになっちゃったから、いつかは自分もお母さんになりたいと思っている若い女性たちは、周りに迷惑をかけないように、子どもを産む自然なタイミングをあえて遅らせてしまったり、生んでも働き続けてしまって、子どもを取り巻く環境が悪化していったのではないかと危惧するワタシ

「お母さんを辞めてしまわないで」って頼むことなど、赤ちゃんや幼い子には出来ませんからね。

 

 

そう言えばすでに、ワタシの時もそんな感じでしたね。

赤ちゃんを授かったので辞めることにしたワタシに、職場の男性の上司は「辞めてしまうのは本当にもったいないんだけれど、赤ちゃんの為にはそのほうがいいと僕も思うよ。頑張ってね。」とワタシの決断に理解を示してくださいましたが、石野さんのような(?)女性の上司は「あなたみたいなのがいるから駄目なのよ」とばかりに席を立ち、最後の挨拶もかけてはくれませんでした。

 

ついでに、も少し遡って、結婚した時の話もしちゃいます。(笑)

24〜5歳だったワタシたち夫婦が、いきなり家を建てようと思ったのは、ただ借り賃を毎月支払うのがもったいなかったから。そして、早期退職した義父の退職金で義母が購入した自然溢れる太古の都会な場所(笑)の宅地を借りられたから。

でも新居は最初の職場からは遠くて、とてもじゃないけど家事との両立は難しかったので、転職先を探してから最初の会社を辞めました。

そして、銀座のレストランで双方の家族だけを呼んで小さな結婚式を挙げたんですが、これは、これからの生活にお金がかかるから結婚式にはお金をかけたくないという、ワタシのシビアな判断です。

決して森川さんの『ゼクシィ』の、レストランde結婚式特集を読んだからではありません。(笑)

 

自分らしいスタイルはそれぞれが模索するものであって、誰かに提案されたからって決まるものじゃない、と思うワタシ。

そんな風に生きてる、あるいはそんな風に生きたいと願う女性が増えてきた兆候があったからこそ、『ゼクシィ』という雑誌が当たったのでしょうし、森川さんが自画自賛されてるような「『ゼクシィ』の提案があったからブライダル業界が変わった」わけではないと思うワタシです。

 

また、女性にとって働く理由は、単に出世欲や経済的なことだけではないと思うのです。

 

ともおっしゃる森川さん。

ご自身の出世欲や金銭欲は認めていらっしゃる?

では、それ以外のものとは何??

自己顕示欲?名誉欲?それとも社会変革欲でしょうか?

確かにどれも、社会に出て行く上ではとても大切な意欲ですよね。

でもいつまでもそれを追いかけているのでは、「社会や企業の制度に頼らないスキル」を磨くどころか「社会や企業の制度」の中だけで自分の価値を量る人になっちゃいます。

そんな中高年は、いやだなぁ、ワタシ。

 

「すぐに辞めてしまうのではなく、長く続けていくことで見えてくるものがある。」ともおっしゃる石野委員。

それなら、自ら子育てすることをすぐに辞めてしまうのではなく、長く続けていくことで見えてくるものもあるのではないでしょうか?

 

えっ!?そんなコ理屈はもうたくさん?

もっとアバウトになれないのか、って!?

あっ☆ だから『All About』なの!? 森川さんの雑誌名・・・。(笑)

 

 

 「ゆとり教育のひずみからか、気力の劣る子供や、子の鏡として行動できない親が増え、漠然とした『心の病』にさいなまされ、『病気』ならば治す、といった認識が甘いのではないか」

 

昨日の産経新聞文化面に『聞こえますか心の叫び「児童精神科」を診る・上』という特集があり、上のような小児科医のコメントで記事は終わっていました。

その小児科医は、話の前段で「互いに背を向けたまま、顔を見て話そうとしない」近頃よく見られる親子の「様子に異変を感じ」「親子関係を見直すことで、ほとんどの症状に改善がみられる」とも話していました。

 

で、ワタシ的に?だったのは、「親子関係を見直すことで、ほとんどの症状に改善がみられる」としているその人が、一方で「気力の劣る子供や、子の鏡として行動できない大人が増え」たことを「ゆとり教育のひずみ」のせいにしていたこと。

どこがどう繋がるのか、ワタシにはわかりませんでした。

 

まぁあえて考えれば、ゆとり教育はゆるい!と子供を塾や習い事に通わせて、自分は外で働き続けるお母さんや、自分の「ゆとり」時間を作った親御さんが増えたから、ってことが言いたかったのかなぁ。

でも、ゆとり教育が本来目指していたのは、子供たちがゆとりある時間枠の中で自発的に学び、遊び、本当の生きる力を呼び覚ますことだったはず。

それには家庭での自習や読書、遊びたい仲間との自由時間を増やすことが含まれていたはずなんですよね。

でもそうできなかった人たちがうまくいかなかった理由を、なんでもゆとり教育のせいにしてる。

その傾向は、今朝の産経抄にも見られました。

 

「文科省のバカ役人が音頭をとったゆとり教育の害毒を大急ぎで取り除かねばならない。」

 

産経抄さんは、「人材こそ宝。学力の低下は国力の低下に直結する。」とその前段で警鐘を鳴らしていらっしゃいますが、そもそも「学力」とは何?(なんども言うようですが

「テストの点数を上げていい大学に入ること」?

それとも「自分で学び、考える力」のことをおっしゃってるのでしょうか?

 

もし前者だとすると、産経抄さんが「バカ」呼ばわりされている文科省のお役人さんは、皆さんいい点数をとっていい大学に入られた人たちなんですよね。

でも産経抄さんは、そんな人たちをバカにしているわけで・・・。

いやそうではなくて後者だ、とおっしゃるなら、ただ受験戦争を勝ち抜いただけの人たちが、自分たちみたいな人材ではこれからの日本は立ち行かないと反省して、教育の新たなあり方を模索したのがゆとり教育かもしれないのに、産経抄さんはそれにも反対してるわけで・・・。

 

で、ワタシ的にやっぱり気になるのが、産経さんの「ゆとり教育=日教組」という主張。

これって本当なんでしょうか?

 

産経さんが日教組の方針に異を唱えてきた姿勢に、共感したからこそ産経新聞をずっと購読してきたワタシ(もちろん共感部分は他にもありますが)ですが、「ゆとり教育=日教組」という見解にはどうしても納得がいきませんでした。

日教組って、お上である文科省の姿勢に何かと反対してきた左翼組織ではないでしょうか?

そしてゆとり教育は、元々、保守の中曽根さんが推進したもの。

それを、そもそも日教組のアイディアだとする図式がわからない、という戸惑いはネット上にも散見されます。

 

ワタシがここ数年、息子たちを通じて実感した実際のゆとり教育は、理念は正しい、けれどもそれを実行できる先生がほとんどいなくて、そして教科書が薄すぎる、というものでした。

アメリカの分厚〜い教科書で自習することを学んだワタシ。

だから息子たちの教科書は薄すぎて、自習するのにもの足りなく思いました。

だから、新たに参考書や問題集を購入することになって、日本は教育にお金がかかるようになってるんだな、と思いました。

 

そんな、ゆとりというより「薄い教育」になっちゃってたゆとり教育に困惑されてる先生方が大勢いらしたのも、ある意味当然だったのかもしれません。

まれにゆとり教育を実践できる優秀な先生がいらしても、自分の子供のテストの成績ばかり気にされる親御さんたちに、懇談会で総攻撃を受けてましたし。

 

今でも忘れられないのは、リストカットするほど心を病んでいた女の子。

彼女の「外で働き続ける」お母さんは、私立中学に行けば大丈夫だからと、ちょっと勝ち気なその子を説得していたんですよね。

周りのお母さんたちもそんな母娘をなぜか援護して、先生を攻撃。

その後、こぞって娘や息子を中学受験させていましたっけ。

当時は「なんでこうなるの?」と不思議でしたが、あぁ、彼女たちも、すべてをゆとり教育のせいにして済ましていたんだなぁと、産経の上記の記事を読んで合点したワタシです。(今頃

 

昨日のNHKのアナウンサーも、ワタシ的には?なことを言っていました。

小学校でnon-Japaの先生から楽しそうに英語の授業を受けている子供たちの映像を流した後で、「楽しいだけでいいのでしょうか」と言っていたんです。

文法を学ばせないと中学に入った時にテストの点数が悪くなり、勉強の意味が無い、っていうことが言いたかったらしいんですが、こういう「数値で測れるものにしか意義を見いださない」というスタンスは、日頃NHKと対峙することの多い産経抄さんも共感されるのではないでしょうか。

要は、日本の大方の人たちは、「ゆとり」や「楽しさ」ということにほとんど価値を見いださない、ってこと。


でも人間って「楽しさ」を感じるから「生きる気力」が湧いてくるんじゃないでしょうか?

 

楽しくなくてもしょうがないのだ。こういう時にはこうするものなのだ。いいから憶えろ!式の画一化された思考パターンを是とする生き方は、「人類の答えは我々選ばれたエリートがわかっているんだから、お前たち労働者は黙ってそれに従え」という統制的なものを是とする世界観と同じになっちゃうのに、と危惧するワタシ。

 

「ゆとり教育」を実践するのは難しい。

難しいことはどうせ出来っこないんだし。

 

って、より良く変わっていくことを諦めて、元に戻っちゃうんでしょうか。

ただ表面的なchangeがあれば、それでいいんでしょうか?

 

我が家の長男はその生真面目すぎる性格ゆえか、中学校の課題(クラブ活動も含む)に取り組んで、塾や通信教育なしに高校受験に臨みました。

ワタシの頃だったら、確実に志望校に入れる成績と共に。

ところが第一志望の県立高校には落ちてしまい、なぜかその県立校より偏差値がひとつ上の私立高校に合格。

現在はその規則が厳しいけれど広々とした敷地の私立校で、大学受験の為の、進学塾並みの猛烈カリキュラムをこなしています。
(古森さんがこの夏、講演にいらしたキャンパスです☆
ちょうど今日、道徳の授業で、古森さんの講演内容を勉強したって言ってました☆)

 

本人は、「中学で教えてくれる勉強内容では僕が行きたかった県立高校には入れなかったってことなんだね。塾や通信教育に重点を置いて、学校の課題は二の次だった子が受かってるんだから。でも、中三の夏休みに自分なりに始めた受験勉強は、本当に大変だったけど自信になったよ。ああいう勉強方法をやっていなかったら、今の勉強にはついていけてなかったと思う。」と言っております。

 

公立の上位校や有名大学の入試って、本当にこ難しい問題が出てるんですよね。

むか〜し高校で受けた全国模試で、総合11位になったことがあるワタシ(これ本当です)ですが、本当にもう答えられない。

英語問題でも四苦八苦!

それなのに、そんな難問をじっくり考える時間は与えられず、「この問題にはこう答える」式の反射神経を磨かないと受からないんですよね。

そういった「技」は公立の中学では身に付かないから、受験に特化した塾や通信教育がマスト(must)になる。

生徒会役員を務めたり部活動で「県レベル」の大会を目指すのも、受験の際に有利になる「ポイント」を稼ぐためで塾へ行くという理由でクラブ活動や委員会活動を抜け出しても、それは大目に見てもらえる。

 

こんなこと、まかり通ってましたっけ?

ワタシたちが中学生だったあの頃・・・。

 

そういった競争のどこが悪い、ゆとり教育はもう止めだ!

という巷の声の高まりから、結局否定された感のあるゆとり教育。

考えてみれば、大学のあり方、特に入試を根本から見直すことなしに、いくらゆとり教育を推進しようとしても、大方の大人たちの合意が得られないことは当然だったんでしょう。

でもだからといって後戻りしちゃって、それどころかもっとおかしな競争を招いている、そんな気がするのはワタシだけ?

そしてそんな競争を勝ち抜いた人たちの、紋切り型の思考方法はOKなんでしょうか???

 

混乱する社会の中で、それでもやっぱり「自ら学び、考える力」を養いたいと思う人たちは、日本ではoutcastになっちゃうんでしょうか!?

それともそんな人たちこそ、日本の本当の底力になる!?

じっくり見守っていきたいワタシです。

 

 

2008年12月18日追記:

ところで気になったことを一つ。

上記で紹介した記事には「『心の病』にさいなまされ」という記述がありますが、これって「『心の病』にさいなまれ」の方が正しいんじゃないでしょうか。

受け身にも程があるような・・・(笑)

 

2009年7月28日追記:

おととい、何気なくつけたテレビでやっていた放送大学の内容に釘付けになった

ゆとり教育は中曽根さんの臨教審から始まったと、明確に説明されていたんです。

やっぱりそれで合っていたんですね。

そして週休二日制になったのは、文部省の要求ではなく、アメリカからの内需拡大要請を受けた産業界の求めに応じてだったということ。

こういったことを、分かりやすい言葉で丁寧に説明されていた放送大学の小川正人さん(確か。メモしてなかったので定かではないのですが)と、聞きのメイン教授・岩永雅也さん。

面白かったです。

 

「お母さん、とうとう1ドル、91円になったよ。」

 

「なんと!」

 

これは今朝の次男坊との会話ですが、今さっきの臨時ニュースでは、89円を記録したとの情報が!

こうなるとわかっていたら、もうちょっと待っていればよかったかな、モンゴメリ日記のvolume5。

な〜んて言うのは冗談ですが、実は先月4日の時点でかなりの円高になっていることに気づいたワタシは(遅?)、前から欲しかったモンゴメリの最後の日記が格安でアマゾン・カナダで販売されているのに気がついたので、思いきって再度注文してみたんです。

で、それがおととい届いたんです♪

アマゾンからのメールには、船便で送る本が届くのは来年の2月半ば頃、とあったのでマッタリと待っていたワタシは、かなり早い到着にビックリ!(またか

 

モンゴメリが晩年に描いた『アンの幸福』や『炉辺荘のアン』。

彼女はそれらの物語を、どのような心境で綴っていたのか・・・。

マクミランへの書簡や物語そのものからワタシ独自の推論はしてみたものの、やはり読んでみたかった晩年の日記。

早速昨日の治験診療の行き帰りに、元気な高校生でごった返す電車内で、所かまわず拾い読みしてみました。(笑)

 

今回初めて知ったことがありました。

 

まるでウチのウェンディのような姿かたちのモンゴメリの愛猫・ラッキィのこと。

年老いたラッキィがモンゴメリの次男坊の部屋で最後を迎えるシーンは、我が家(というか庭)にいた雄猫メルのことが思い出されて、くっちゃべっている高校生で溢れかえっている電車の中なのに、涙が溢れて困った困った。

それから、日記のラスト辺りに描かれていたMrs. トンプソンというお人。

子連れのお手伝いさんである彼女への人助けから始まった関わりが、最後はひどい裏切りで幕を閉じるエピソードは、とても人ごととは思えませんでした。

まるで近所のあの女性(ヒト)がワタシにした仕打ちとクリソツ・・・う〜ん、わかるわかる。(涙)

 

MYサイト「もっと『赤毛のアン』を描きたかったモンゴメリ」でのワタシの推論を、強力に後押ししてくれる記述も盛りだくさん!

 

改めて追加しておきたいことも少しばかり出てきました。

 

思えば昨年の3月、ちまたに流れる「モンゴメリはアン・シリーズにうんざりしていた」説にどうしても納得がいかず、こちらのイザ!ブログに少しずつ自説を書きためていったワタシ。

そしてそれらを「もっと『赤毛のアン』を描きたかったモンゴメリ」というサイトにまとめ直したのが昨年の8月。

あれから1年以上が経過して、現在の訪問者数は3596をカウントしております。

ありがとうございます。

 

                   

 

 

舞い上がれ 取り残されたこころ
果てなき宇宙(そら)の彼方へ


孤独の闇に落ちこんで
淋しさに押し潰されそうなとき
こころの奥に見えるものを 私に伝えて
ほかの誰より知っている 君自身で
怯(おび)えることも 

ためらうことも
なくていいから

 

何度でも 何度でも
若鷲が空を目指すように

雨上がりの陽射しに輝く朝のように
仮面をはずして 素直なこころで
はばたけ 飛べると信じて

その先に満ちる光は 
Joy 
and Truth
悲しみは果てないとしても
いつも希望がともにあるから

思い描いた私たちになれるように

 

涙を流していた昨日と 別れたとしても
一途な想いはなくさずに 明日へと運んで

夜の闇を抜け出し
真新しい朝(あした)へ
航海(たび)は今 

始まったばかり


消え去れたならと 思うことがあるんだ
この痛み傷つく場所から 

遠く 
永遠に立ち去れるものならばと

でも あなたの瞳に映るものを見たとき
もう逃げ出すことはやめたんだ 
そう 確かにやりきれないときもあるけれど
でも今は 悲しみに「さようなら」と言えるよ

月が夜空を星と輝き満たすように
僕も宇宙(そら)の風の中 

舞い踊るよ

闇の中でも 求め続ける
もう恐れるものは何もない
僕は見上げて飛び立つよ

夜の暗闇でも見つけるよ
痛みは消えなくとも
希望がいつも 

ともにあるから

この銀河の流れのなかで
いつの時も 自由でいられるように
今日を越えて進めば
太陽が道を示してくれるはず

夜の闇を抜けて 生まれたての明日へ
僕の旅は続くよ


その先に満ちる光は Joy and Truth
悲しみは果てないとしても
希望がいつも 

ともにあるから

思い描いた私たちになれるように


涙を流していた昨日と 別れたとしても
一途な想いはなくさずに 明日へと運んで

夜の闇を抜け出し 真新しい朝(あした)へ
君の航海(たび)はもう 始まっている
  
 

 

 

「dis-」英語詞:有坂美香 作曲:M Rie  編曲:M.I.D.

私家版翻訳 by nobvko

  

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