オバマ大統領が就任演説で引用した新約聖書「コリント人への第一の手紙」13章11節。
We remain a young nation, but in the words of Scripture,
「set aside」が「止める、捨てる」と「そばに置く、取っておく」のかなり違った意味を持ち、「childish」も「子供らしい」と「幼稚な」の2つの意味を持つこと。
それゆえオバマ大統領の言葉は「幼稚なことを捨てるときが来た」というものではない可能性について、前回と前々回で考察しました。
どちらなんでしょう?
捨てるのか、取っておくのか。
っていうか、そもそも古典ギリシャ語の聖書では、なんと言っていたのでしょうか。
ギリシャ語も、ヘブライ語も、宗教改革をしたルターの作ったドイツ語もわからないワタシにはもうお手上げ状態。
でも推察なら出来るかもしれません。
今ごろになって気がついたのですが、前々回で紹介した13章11節の
When I was a child I talked like a child,
という部分は、一人称、なんですよね。
「私」ではなく「わたしたち」になっている日本語テキスト(口語訳)に気を取られて、そこに思い至りませんでした。
ここが一人称で記されているということは、この「私」はきっと、手紙を書いたパウロその人のことと思われます。
つまりこの手紙は、パウロが
「私は大人になる時に、幼な子らしく話したり感じたり、考えたりすることを終えた。」
と昔を回想しながら、
「大人である私たちが知っていることは、しかし一部分である」
と、布教に勤しむコリントの信徒たちに向けて、自分たちだけが神を知っていると驕り高ぶることのないよう、戒めるためのものだったのではないでしょうか。
で、思ったんですよね。
前回の終わりに紹介した「子供たちを祝福するイエス」にも見られるように、純粋であることの大切さを今に伝える聖書が、単純に「幼稚なことは捨てろ」なんて言わないんじゃないかな、って。
もちろん、いつまでも子供のままでいたくてもそれは無理。
身体も大きくなり、知恵も付いてしまうのですから。
ところで日本のクリスチャンは、ワタシの知る範囲ではプロテスタントもカソリックも、どちらもこの13章11節を「子供っぽいことを止める、捨てる」と解している模様。
日本ではこう言った時、「子供らしい部分を取っておく」なんて風にはまず訳さないとしたら、それは「子供っぽいことは止めろ」と説教したがる社会だからでしょうか?
そして現代の欧米でも、日本同様「捨てる」と迷わず解しているのなら、欧米もそのような社会になったということかな、と思ったワタシ。
でも明治の頃、大森貝塚を発見したエドワード・モースが、
「世界中で日本ほど、子供が親切にとり扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない」
と言ったり、また、ハリスの通訳だったヒュースケンが、
「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質実な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい美声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」
と言っていた日本。(以上、子どもを大切にしていた日本の文化より引用。)
かつての日本に見られた「子どもの風景」に愛おしさを感じる人たちは洋の東西を問わず、13章11節を訳す時に「捨ててしまった」と惜しむニュアンスにして、「子供らしさ」をどう受け止めるか、わかりやすくしようとしたのかもしれません・・・。
そして現在、日本で主流のプロテスタントとカソリックが共同で訳したという「新共同訳聖書」では、この部分は「惜しむニュアンス」にはなっていませんでした(↓)。
コリントの信徒への手紙一/13章11節
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
身体が大きく立派になっても、自分が知っていることは一部分にすぎない。
文明が進んだ今、そう思える大人はどれほどいるのか。
だからこそ聖書は、繰り返し伝えているのかもしれませんね。
イエスが生まれる400年前に、ソクラテスがそう言っていたように。
そしてワタシがあれこれ思ったことも、所詮は一部分にすぎないんでしょうネ。(笑)
2009年1月31日覚え書き:
コリント人への第一の手紙にある「幼な子」と「子供」のギリシャ語表記について。
13章11節にある「幼な子」:nepios
14章20節にある「悪事については幼な子となるのはよいが」の「幼な子」:nepiazo
「物の考えかたでは、子供となってはいけない」の「子供」:paidia
( 以上、『新約聖書翻訳委員会訳新約聖書』2004年 岩波書店 p.537とp.539より)
nepios: an infant, child (ギリシャ語辞典のこちらのページより)
nepiazo: be a child (ギリシャ語辞典のこちらのページより)
paidia: little, young child, damsel (ギリシャ語辞典のこちらより)
nepiazo:無垢
paidia: 戯れごと、気晴らし、ひまつぶし、