october sky〜遠い空の向こうまで〜

謎主婦・風信子(ヒヤシンス@nobvko)のブログです。宜しくお願いします♪

2009年01月

 オバマ大統領が就任演説で引用した新約聖書「コリント人への第一の手紙」13章11節。

 

We remain a young nation, but in the words of Scripture, the time has come to set aside childish things.

 

「set aside」が「止める、捨てる」と「そばに置く、取っておく」のかなり違った意味を持ち、「childish」も「子供らしい」と「幼稚な」の2つの意味を持つこと。

それゆえオバマ大統領の言葉は「幼稚なことを捨てるときが来た」というものではない可能性について、前回前々回で考察しました。

 

どちらなんでしょう?

捨てるのか、取っておくのか。

っていうか、そもそも古典ギリシャ語の聖書では、なんと言っていたのでしょうか。

 

ギリシャ語も、ヘブライ語も、宗教改革をしたルターの作ったドイツ語もわからないワタシにはもうお手上げ状態。

でも推察なら出来るかもしれません。

 

今ごろになって気がついたのですが、前々回で紹介した13章11節の

 

When I was a child I talked like a child,  I thought like a child,  I reasoned like a child,  but on becoming a man I was through with childish ways.

 

という部分は、一人称、なんですよね。

「私」ではなく「わたしたち」になっている日本語テキスト(口語訳)に気を取られて、そこに思い至りませんでした。

ここが一人称で記されているということは、この「私」はきっと、手紙を書いたパウロその人のことと思われます。

つまりこの手紙は、パウロが

 

「私は大人になる時に、幼な子らしく話したり感じたり、考えたりすることを終えた。」

 

と昔を回想しながら、

 

「大人である私たちが知っていることは、しかし一部分である」

 

と、布教に勤しむコリントの信徒たちに向けて、自分たちだけが神を知っていると驕り高ぶることのないよう、戒めるためのものだったのではないでしょうか。

 

で、思ったんですよね。

前回の終わりに紹介した「子供たちを祝福するイエス」にも見られるように、純粋であることの大切さを今に伝える聖書が、単純に「幼稚なことは捨てろ」なんて言わないんじゃないかな、って。

 

もちろん、いつまでも子供のままでいたくてもそれは無理。

身体も大きくなり、知恵も付いてしまうのですから。

 

ところで日本のクリスチャンは、ワタシの知る範囲ではプロテスタントもカソリックも、どちらもこの13章11節を「子供っぽいことを止める、捨てる」と解している模様。

日本ではこう言った時、「子供らしい部分を取っておく」なんて風にはまず訳さないとしたら、それは「子供っぽいことは止めろ」と説教したがる社会だからでしょうか?

そして現代の欧米でも、日本同様「捨てる」と迷わず解しているのなら、欧米もそのような社会になったということかな、と思ったワタシ。

 

でも明治の頃、大森貝塚を発見したエドワード・モースが、

 

「世界中で日本ほど、子供が親切にとり扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない」 

 

と言ったり、また、ハリスの通訳だったヒュースケンが、

 

「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質実な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい美声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」

 

と言っていた日本。(以上、子どもを大切にしていた日本の文化より引用。)

かつての日本に見られた「子どもの風景」に愛おしさを感じる人たちは洋の東西を問わず、13章11節を訳す時に「捨ててしまった」と惜しむニュアンスにして、「子供らしさ」をどう受け止めるか、わかりやすくしようとしたのかもしれません・・・。

 

そして現在、日本で主流のプロテスタントとカソリックが共同で訳したという「新共同訳聖書」では、この部分は「惜しむニュアンス」にはなっていませんでした(↓)。

 

コリントの信徒への手紙一/13章11節

幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

 

 

 

身体が大きく立派になっても、自分が知っていることは一部分にすぎない。

文明が進んだ今、そう思える大人はどれほどいるのか。

だからこそ聖書は、繰り返し伝えているのかもしれませんね。

イエスが生まれる400年前に、ソクラテスがそう言っていたように。

 

そしてワタシがあれこれ思ったことも、所詮は一部分にすぎないんでしょうネ。(笑)

 

2009年1月31日覚え書き:

コリント人への第一の手紙にある「幼な子」と「子供」のギリシャ語表記について。

 

13章11節にある「幼な子」:nepios 

14章20節にある「悪事については幼な子となるのはよいが」の「幼な子」:nepiazo

「物の考えかたでは、子供となってはいけない」の「子供」:paidia

( 以上、『新約聖書翻訳委員会訳新約聖書』2004年 岩波書店 p.537とp.539より)

 

nepios: an infant, child (ギリシャ語辞典のこちらのページより

nepiazo:  be a child (ギリシャ語辞典のこちらのページより)

paidia:  little, young child, damsel (ギリシャ語辞典のこちらより

 

nepiazo:無垢

paidia: 戯れごと、気晴らし、ひまつぶし、

 

曽野綾子さんは1月26日の連載コラムで、オバマ大統領の就任演説について、次のように書かれていました。

 

オバマは聖書の言葉を引き合いに出した。「聖書の言葉を借りれば『幼子らしいこと』をやめる時が来た」というのである。

この言葉は聖書の中でも、まずあまり引用されない部分だが、実に現実的な意味を含んでいる個所だ。聖パウロの「コリントの信徒への手紙」(一 14・20)に書かれている言葉である。

 

オバマ大統領の聖書の引用は「コリント人への第一の手紙」14章20節からである、そう明言されたカトリック教徒の曽野さん。

確かに、ワタシの手元にある新約聖書の該当節にも

 

兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。

 

とあります。

しかし、その節の英文テキストにあるのは「childish」という語ではなく「children」です。

もっとも、ワタシの聖書は高校のプロテスタント系の先生が「ちょっと古い箇所があるんだけど、まぁいいか。」と言いながら、キリスト教概論の授業で生徒全員に配った代物なので、これを絶対視するのはちょっと怪しいのかもしれません。

 

 

そこで、Bible Gateway. comという、世界各国語の聖書を閲覧できるサイトのお世話になることにしました。

そこにあったメジャー(らしい)20種類の英語版聖書上で、オバマ氏が用いた「childish」という言葉を検索してみたところ、曽野さんが指摘している14章20節の記述で「childish」を用いていたのは『New Living Translation』と『Holman Christian Standard Bible』の2種類の聖書しかありませんでした。

一方、前にワタシが触れた「コリント人への第一の手紙」13章11節の記述では、「childish」は14種類の聖書でヒット。

 

ちなみに14章20節の記述で「childish」を用いていた2種類の聖書のうちの1つである『Holman Christian Standard Bible』にも、13章11節が次のように「childish」の記述で載っていました。

 

When I was a child, I spoke like a child, I thought like a child, I reasoned like a child. When I became a man, I put aside childish things.

 

オバマ大統領の演説は「The time has come to set aside childish things」というものですから、13章11節で「childish」を用いている他の英語版聖書の記述と比べてみても、一番よく似た表現でした。

 

それから曽野さんは、

 

英語には「チャイルドライク」と「チャイルディッシュ」と外国人の我々が間違いそうな二つの表現がある。

「チャイルドライク」は言葉通り、「無邪気な、子供のような」ことを指すが、「チャイルディッシュ」は「おとなげない、弱々しい、愚かな、幼稚な」という悪い意味である。

 

とも書かれていますが、「childish」という表現の解釈を丁寧に説明されているところを見ると、どうやら曽野さんが用いておられる聖書は、14章20節の記述で「childish」を用いていた『New Living Translation』か『Holman Christian Standard Bible』のいずれかなのではないかと推察されます。もし、『Holman Christian Standard Bible』をお読みなのであれば、先ほども書いた通りすぐ前の章にオバマ大統領の演説ととても良く似た表現が書かれているのに、オバマ大統領の演説が14章20節からの引用であると思われた理由がわかりません。

ということは、『New Living Translation』をお使いなのかしらん。でも、こちらの聖書の13章11節にもオバマ氏の演説に出て来る「childish」とか「things」とかが用いられてるんですけど・・・。

 

 

ところで、英和辞典を調べてみると「チャイルディッシュ」には

 

1)児童の、子供らしい

2)(大人について)子供じみた、幼稚な、おとなげない、ばかげた

 

という2つの意味がありました。(『新英和中辞典』研究社 1981年より)

英字辞書を見ても、

 

1) Of, similar to, or suitable for a child.

2)  Foolish; puerile

 

とあり、英和辞書と同様、「子供らしい」という悪くない意味もあったんですよね。

ちなみに「puerile」というのは、

 

子供の[らしい];たわいもない、未熟、

 

の意です。

英字辞書の「childish」の箇所の注釈には、

 

Childish applied to adults is almost invariably a term of reproach but lacks such connotation when applied to children.

 

と書いてありました。(『The American Heritage Dictionary of the English Language』New College Edition 1980年より)

 

「チャイルディッシュ」が大人について用いられる時は、ほとんどいつも非難の言葉であるが、子供について用いられる時にはそのような意味合いは持たない。

 

とのことです。

オバマ大統領は、アメリカをまだ若い国だ、と述べた後でこの「childish」を用いていますよね。

この場合、大人について用いた非難の言葉となるのか・・・ネイティブでないワタシには微妙に思われます。

 

尚、曽野さんが指摘された14章20節については、17種類の英語版聖書が「childish」ではなく「children」を用いていたことも、ここに合わせて記しておきます。

そして6種類の英語版聖書には、13章11節の記述においても「childish」の文字はありませんでした。

 

ウ〜ン、オバマ大統領、というか氏のスピーチライターさんはどの時代のどの聖書を使っているのかなぁ・・・。

 

 

 

するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた,

「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい,  止めてはならない。神の国はこのような者の国である。」

 

「ルカによる福音書」18章16節より

 

 

『無知の知(改)』へ続く〜

 1月7日(月)

 

フー。体操やった後はきもちいいーー!

I am tired だケドね。

理科のテスト、”原子の元素記号” 100%!!ヤッホー。

But 今日はbest 最悪な1日だった。

なにせ、私自身の心がうつだったんだもんね。

クーッ。もう。

大変にうつ。

ヤーね。

カゼ気味でもあったので、そうなったみたいダケド

♪明日という字は”明るい日”と書くのねー♪ です!!

 

Okabaさんからletter!

 

1月8日(火)

 

さてト、今日は今日のお天気のように、晴れ渡った1日でした。

いつも明るくしてれば、そのうちHappyになってくのよね。うん!

しかし、私はドンカンなところがあるからね。

気をつけなくちゃ。

あぁ、理科、昨日はsymbolの勉強しなかったから、今日指された時、まちがえちゃった。

今日はちゃんとやりました。

社会はTest。

今からやります。

数学、ダンダン、difficultーーー!

 

Kidokkoさんからletter!

 

1月9日(水)

 

今少し前、戸塚へ電話しました。

さて、今日はHappiness day

いろいろ明るく考えるといい1日になるのですよね

明日も今日のような1日だといいなぁ

そうして、やせるのダーーー・・・と言いつつ、

明日の朝食べるチョコレートドーナツを、楽しみにしてるのダ。

 

1月10日(木)

 

数学のTest、たーいへんでした!!

もー、6問目のlastのが、方程式が作れなくて、困ってしまったのダ。

But 最後の最後のドンづまりで、答えが出たのだーーー!!

うれし

神様、仏様に感謝!!

今、『なかよし』を横に置いて書いてるので、

それが読みたくてウズウズ!!

明日は理科のテストが待っている!!ウー。

 

1月11日(金)

 

Americaってへんな国!

まぁ、この年頃の子たちはしょうがないのかもね。(それにしてもネ)

 

さて、今日はふつうならうつになる1日だったケド、明日がお休みなのでセーフ。

今日はストーム!

コワイ。

明日は遊ぼー。

 

数学のTest、105てーん!!

 

1月12日(土)

 

Japan Bowlはあいにくの雨

かわいそう!

今、歯が1本痛いー。

さて、今日はケンタッキーフライドチキンを食べました

おいしくって、たくさんeat!(ate!)

ケーキもate

だってお母さんのBirthdayのお祝いだもーん。

nice dayでした。(晴)

明日はどうかな(今日のことだワ。今、夜中の2:00前)

 

1月13日(日)

 

今日、初めて、昭和55年ということに気がつきました。

朝早く、『鬼畜』という日本映画を見に行きました。

かわいそうの一言。

運命なのだとしか言えなくて、うう。

明日はスクール。

 

1月14日(月)

 

イヤイヤ行ったschoolでした。

今考えてみると、私は甘えていると思います。

家族とともに来て、お金には不自由ないし、

十分英語力をつける機会はあるのに、

みずから退いてしまっている。

恥を捨てて、がんばらねば!!

nobukoのド根性を発揮するのダ!

漢字もがんばらねば!ウッ

明日は1日、のんびりしよーーー

 

1月15日(火)

 

お母さんの40才のお誕生日です。

だから、絵を描いてみました。

お母さん、今までありがとう!!

そしてこれからもがんばって下さい。

さぁて!今は少し熱っぽいケド、

気にせずtomorrowはがんばるぞ〜!!

おっやすみー!

 

今日は心のきりかえの日。

 

 

 

 

読売新聞のオンラインに、オバマ大統領の就任演説の全文和訳が載っています。

それを読んでいって、あれ?っと思ったワタシ。

 

我々の国はまだ若いが、聖書の言葉には、子どもじみたことをやめるときが来たとある

 

えっ!? 子どもじみたことをやめるとき!?

産經新聞のオンラインにも全文和訳が載っていますが、

 

われわれはまだ若い国家だ。だが、聖書の言葉にかけて、幼稚なことを捨てるときが来た。

 

と同様の訳になっています。

でも・・・聖書はそんな風に言ってましたっけ?

 

幼稚園の1年間と、アメリカから帰国してからの高校、大学を「キリスト教」を冠するプロテスタント系の学校で学んだワタシの手元には、その時もらった新約聖書があります。

で、オバマ大統領が聖書から引いて若干表現を変えてスピーチに織り込んだフレーズ

 

but in the words of Scripture, the time has come to set aside childish things.

 

と、それに対応するコリント人への第一の手紙の第13章11節にある元々の英文テキスト

 

but on becoming a man I was through with childish ways

 

を見比べてみました。

この部分だけを読み比べる限り、両方とも同じことを言っているようにも思えますが、それぞれの前後の文脈を見るとどうでしょう。

まずはコリント人への第一の手紙第13章11節:

 

わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

 

When I was a child I talked like a child,  I thought like a child,  I reasoned like a child,  but on becoming a man I was through with childish ways.

 

日本語テキストには「捨ててしまった」とあり、「幼な子らしいことを捨てた」ことは望ましいことではなく、惜しむべきこととされていると解釈できます。

ただ、英文テキストについては、この節だけではどちらのニュアンスなのかははっきりわかりません。

そこで、11節の二つ前にある9節から読むと、9節は

 

For our knowledge is fragmentary and so is our prophesying.

わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。

 

と現在形で「わたしたちが知っていることは一部分」であることが語られ、続く10節では

 

But when the perfect is come then the fragmentary will come to an end.

全きものが来る時には部分的なものはすたれる。

 

と未来形で「全きもの」が来た時、「部分」がなくなることが語られています。

また、11節の後に続く12節では、

 

For now we see indistinctly in a mirror, but then face to face.

Now we know partly, but then we shall understand as completely as we are understood.

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。

わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかし、その時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。

 

というように現在形と未来形で「一部分」と「完全」の対比が続くことから、9節から12節までの全体の意味は、

 

過去:子どもの時分は幼いなりに、知っていたわたしたち。

現在:大人になるにつれて子どもらしさを失い、わたしたちの知るところは「一部分」となってしまった。

未来:しかし「その時」が来れば、私たちは「全きもの」によって「完全」に知るものとなるのだ。

 

という風に読めます。

よって間にはさまれた11節は、

 

しかしおとなになって行く時に、こどもっぽいことをやめてしまった

 

と、聖書の日本語テキストのように「惜しむニュアンス」になると思われるのです。

 

 

一方、オバマさんの原文スピーチは昨日も書いたとおり、次の通り。

 

We remain a young nation, but in the words of Scripture, the time has come to set aside childish things. The time has come to reaffirm our enduring spirit; to choose our better history; to carry forward that precious gift, that noble idea, passed on from generation to generation: the God-given promise that all are equal, all are free, and all deserve a chance to pursue their full measure of happiness.

 

う〜ん、微妙だなぁ・・・。

 

オバマさんの用いた表現「set aside 」を辞書で調べると、

 

そばに置く(put aside);取りのけておく:無視する;無効にする;拒絶する;除外する

 

となっていて、ついでに「put aside」も調べると、

 

(1)わきへやる、片づける:たくわえておく

(2)無視する

 

とありますから、パッと見では読売や産経の和訳どおりのようにも読めます。

 

でもそうだとすると、オバマさんは聖書のフレーズをその真意と逆の意味合いで引用した、ということになりはしませんか?

だとしたら、アメリカ国民のうちカトリックやプロテスタントのクリスチャン達にとって、それってOKなんでしょうか。

 

あるいは、「set aside 」が「取りのけておく」すなわち「それだけ別に残しておく」という意味で用いられているのだとしたら、聖書のテキスト同様に、「子供っぽいことを無くすな」という意味にも取れます。

もし、聖書のテキストに馴染んでいるキリスト教徒の人たちにはそう受け止められるのだとしても、オバマさんも述べていたように、アメリカ国民にはイスラム教やヒンズー教、ユダヤ教、そして無神論者の人たちもいて、彼/彼女らは新約の聖書を知らないのだから、オバマさんの言葉通りに「子どもじみたことは止めにして」という意味に受け取ったのではないでしょうか。

日本の新聞のように・・・。

 

捨てろと言っているのか、取っておけと言っているのか。

明快でノリの良いフレーズで人気を博したオバマ大統領のスピーチにしては、聴衆の皆さんの盛り上がりが今ひとつだったのは、聴き入っていたからというよりはわかり難かったからかも?

 

オバマさん、明瞭から難解にChange!?

 

 

『イエス, we childish.(←?)』へ続く〜

 

 

神の御旨により召されて第44代合衆国大統領となったバラック・フセイン・オバマから、クリントン国務長官の夫、すなわち、第42代合衆国大統領ビル・クリントンへ。

 

お陰さまで、無事にホワイトハウスに入ることが出来ました。

ところで私の就任演説の、

We remain a young nation, but in the words of Scripture, the time has come to set aside childish things.The time has come to reaffirm our enduring spirit; to choose our better history; to carry forward that precious gift, that noble idea, passed on from generation to generation: the God-given promise that all are equal, all are free, and all deserve a chance to pursue their full measure of happiness.

というくだりは、ご承知の通り新約聖書のコリント人への第一の手紙:第13章11節

わたしたちが幼な子であった時には、

幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、

また、幼な子らしく考えていた。

しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

 

から引いたものですが、いま改めてあなたに届けたいと思います。

 

あなたがジョージ・W・ブッシュに政権を渡した時には、

あなたは幼子のような嫌がらせを考えていた。

ホワイトハウスの全てのPCのキーボードからWのキーだけ取り去ってしまった。

執務室の机の引出しを接着剤で固めてしまった。

私の閣僚の多くはあなたのスタッフでもあった者たちだから、Wキーのほとんどは戻ってきたが、

私のPCにはWのキーが無く、私はデスクに書類をしまう事が出来ない!

これでは、世界を変えることなど No, I can't !!

ところで、ブッシュは大統領の仕事をHow he can !?

 

 

オバマさんが掲げる「グリーン・ニューディール」政策。

 

お昼すぎのTBS情報番組で、識者の方(元NHK)が「ルーズベルト大統領がニューディール政策でアメリカ経済を回復させたように、環境対策で雇用を創出して経済を回復させることです」と興奮気味に解説されていました。

 

でも、ルーズベルト大統領はニューディールで経済を回復させたって言えるのかなぁ?と疑問に思ったワタシ。

だって民主党のルーズベルトの就任は1933年なのに、それからかなり長い間、経済は回復しなかったようですから・・・。

L.M.モンゴメリを調べていく中で、その当時の社会のなんともいえない不安な様子がよく伝わってきました。

そしてアメリカは、第二次世界大戦で対日・対独に参戦して、ようやく経済復興を果たしたんじゃありませんでしたっけ?

 

よく、共和党のブッシュ大統領のイラク戦争を指して、ネオコンが石油利権のために戦争を始めた、って評する識者がいますけれど、経済の為に戦争を利用すると言うんならルーズベルト大統領は?

 

う〜ん、オバマさんのグリーン・ニューディールもルーズベルトの轍を踏まなければいいんですが・・・。

世界中の人々の異常とまで言える熱狂が冷めかけた時、人気を保とうと焦ってケネディみたいなことをやり出さなければいいんですけど・・・。

 

なにはともあれ、ブッシュ大統領、ライス長官、本当にお務めご苦労様でした。

 

大海原に面した浜辺。

そこにガラス張りの大きな建物が立っていて、ワタシは家族とその中にいました。

周りにはちらほらと、見知らぬ人たちがいて、その中に赤ちゃんを抱っこした若いお母さんがいました。

ワタシが赤ちゃんを抱かせてもらうと、赤ちゃんの手は布でぐるぐると巻かれています。

その布を解くと、中からは木の枝のような細い腕と、小枝の芽のような五本の指が手首から少しだけ伸びていました。

 

「布でぐるぐる巻きにしてたからこんな風に?」

 

と戸惑うワタシに、若いお母さんは赤ちゃんを受け取ると、

 

「大丈夫です。」

 

と言って、赤ちゃんの小枝のような指を両手でさすり始めました。

少し遠くにはその女性(ひと)の旦那さんと思われる男性がいて、落ちつかなさそうにしているので、その男性(ひと)の所まで行って、赤ちゃんの手の事を話すと、

 

「やっぱりそうか・・・。」

 

と言って、頭を抱え込んでしまいました。

そばにいたワタシの母も、

 

「巧くさすらないと、アザになるのよ。」

 

と、心配しているような、諭(さと)そうとしているような顔。

また赤ちゃんのところに戻ってみると、赤ちゃんの手は、普通の赤ちゃんの手に育っていました。

 

前を見ると、大海原の左側から、これまたガラス張りの大きな家が近づいてきました。

その建物の中には、芸術家のような異彩を放つ洋服を身にまとったおばあさんが、目元を際立たせた化粧顔で、じっとこちらの建物の方を見つめていました。

そのうちに、ワタシ達のいる建物とすれ違って遠ざかって行きました。

 

野菜やくだものが売られているコーナーでタイムサービスの時間になり、大勢の人が群がっていましたが、ワタシも大急ぎでそちらへ行ってみると、かごにはジャムと、見た事の無い大きな木いちごのような果実がひと枝にひとつずつ成っていて、そのまま売られています。

木いちごのような実のなった枝をひとつ手に取ると、そばにいた見知らぬおじいさんが、

 

「こちらの方がいいよ」

 

とジャムの瓶を勧めてきました。

 

と、ここでいきなり目が覚めたワタシ。

変な夢でしたが、今日は1日、元気に過ごす事が出来ました。(笑)

 

 

今、一番楽しみなのがNHKの土曜時代劇『浪花の華』。
公ではないある組織に属するかっこいい女性が大坂の町を守っていて、日の本一の医者になるため大坂に出て来た人嫌いの武家の三男坊(笑)が、その女性(ひと)を好きになってしまう・・・というストーリー。

登場人物の性格描写・・・というより、テレ東でケータイ捜査官のバディも演ってる主人公のズバ抜けた演技力が気に入りました♪

テンポも今風だし。

 

昨日の2話目は、主人公が脇にまわったエピソードでちょっと肩透かしな感じでしたが、舞台設定の説明の回だと思えばまぁ納得。

 

で、朝目覚めた時、ふと思ったんです。

織田信長の楽市楽座の政策は、ちゃんと秀吉に受け継がれて大阪で花開いたんだなぁ、って。

えっ? なにを今更?

まぁ当たり前と言えば当たり前の流れなんでしょうけど、ワタシの中学の歴史では(アメリカで受けた日本の文部省の通信教育も含む)、楽市楽座の始まりについては強調しても、それがどのように展開していったのかについてはあんまり聴いた覚えがないもので。

 

当たり前な事は教えない?

 

ところで、今日で最終回だった『仮面ライダーキバ』。

ワタルのお母さんは生きていた、っていう最終話は、途中から番組を観なくなっていたワタシの予想どおりでした。(笑)

家族の物語を初めて書いた井上敏樹さん。

でもワタシ的には物足りなかった。

メジャーになって予算が取れても(?)、『シャンゼリオン』の最終話を超えられないのはなぜでしょう?

 

あぁ!井上ストーリーに心揺さぶられる日は、もう二度と来ないのかっ!?

 

 

 

 

 

 

ちなみに今年の大河ドラマは昨年同様、観ておりません。(笑)

 

アラスカ、ネブラスカ、ナスカスカンジナビア、スカイ島、スカ(コ)ットランド・・・。

日本にも、飛鳥(アスカ)、横須賀(ヨコスカ)、大須賀(オオスガ)などなど。

どうも環太平洋と北海の周辺域には、「スカ」という音を伴う地名が多いようです。

それからアメリカ大陸には「カ」で終わる地名が多い。

アメリカ、アラスカ、ナスカ、インカ、チチカカ、アステカ・・・。

なんでだろう?というのがワタシの長年の研究テーマ。(笑)

 

 

地名と言えば、最近は「アメリカ」という呼称の由来についてもこだわって調べてます。

 

新大陸を最初に発見したアメリゴ・ベスプッチからネーミングされたというのが通説ですが、ヘンリー7世に未開地の探索を命じられたJohn Cabot に投資したRichard Amerik に由来するという異説もあるようですね。

 

で、ワタシ見つけちゃったんです。

フランスの大きな半島の地名が、昔、アルモリカ(ARMORICA)って言われていたことを。

で、思ったんです。

アメリカ(AMERICA)って名前はこの土地から来たんじゃないの? って。

 

元々ケルト人が住んでいたこの地域は、確認されている範囲でも紀元前55年頃には既に「アルモリカ」と呼ばれており、3世紀頃にはローマ帝国の衰退に伴い荒廃、その後に島(現英国)からの別のケルト人の到来で再び活気づき、今に至るのだそうです。

現在この地域が「ブルターニュ」と呼ばれているのは、現在のドイツやデンマークの北海沿岸からブリテン島に襲来したアングロ・サクソンに追いやられる形で移動したケルト人=ブリトン人(通称『島のケルト』)が移り住んだことに因んでいるとのこと。

ブリトン人の移住が進んだ頃からブレトン語というケルト語が発達したそうで、以来5世紀ごろまでガリア(西ヨーロッパ)で唯一ケルト語が話されていた地域・・・なんだそうです。(以上『ケルト歴史地図』p.67 および Wikipedia より)

 

で、ワタシは考えました。

3世紀頃にブリテン島からアルモリカに移り住んだケルト人の祖先は、そもそもアルモリカからブリテン島に渡って行ったのではないか・・・って。

 

さて、時代はずっと下って17世紀末、ブリテン島の南西部に位置するウェールズの人たちはアメリカ大陸に移民し始める訳ですが、ウェールズといえばこちらもケルトというのは常識。

ということはですよ、移り住む大陸に、自分たちケルトの心の故郷である「アルモリカ」と似た響きの名をつけたかったんじゃないのかなぁ、って。


ある研究者の説によれば、すでに16世紀初頭には地図上で「Amerik's land」と表示されていたという北アメリカのノヴァスコシアやニューファンドランド。

そして、アメリゴ・ベスプッチの「アメリカ」は、南アメリカのことだけを指していたという事実。

そのような地図上の一記述を移民達が大陸名として受け入れていった背景には、実はケルト的な音の繋がりがあったのかも・・・と思うと面白くありませんか?

 

そう思ったワタシは、またまた興味深い話を見つけました。

ウェールズには、12世紀頃に現アメリカ大陸に渡って行った王の伝説があるんだとか。

その名はマードック。

16世紀にはエリザベス一世が、新大陸での権益確保の正当性を主張するため、アメリカインディアンのマンダン族という部族がウェールズ特有のカヌーであるコラクルを用いている・・・等から、マードック伝説を確認しようとしたこともあるそう。

20世紀に入ってからも、マンダン族の生き残りをレポートした人がいて、彼によればマンダン族は他部族よりも背が高く色白の肌をしていて、一部には目の青い人もいたとか。

そして、Lone Man(孤独な男?)が海を越えてこの地にたどり着き、その時彼が「multi-color(多色)の牛」と建築や栽培技術を持って来たという言い伝えがマンダン族にはあるんだとか。

この「伝説」の真偽はともかく、「マードック・フィーバー」がウェールズ人の新大陸への移住ムーブメントの大きな動機付けになったことは間違いないとのこと。

 

ウ〜ン、面白〜い

何が面白いって、あのフランスのアルモリカには、アルモリカンという牛がいるんですよね。

茶色のかわいらしいこの牛さんを飼っていらっしゃる在仏の日本人の方のブログを見つけたワタシは、次男坊に頼んで見よう見まねでアルモリカンの牛さんの猫用マスコットを作ってもらったんです。

アルモリカンは multi じゃなくて mono-colorなようですけれど、「牛」って繋がりがなんとも面白〜い!

 

それにしても、フランスのアルモリカという古い地名がアメリカ大陸の名の由来だと思ってるのは世界中探してもワタシだけかも

あっ、テレ朝さん、ワタシの記事はわざわざ「ねつ造」なんかしないで、どうぞそのままお使いください。(笑)

 

 一昨日の「日本よ〜経済性なる欲望からの解放〜」。

ホーキングの発言に関する石原都知事の今回の引用には、地球文明について以前見られた「高度の」とか「発達した」という修飾語がありませんでした。

「経済性なる欲望」が支配する文明ならば、それはもはや高度なものとは言え無いと思われるようになったから?

 

 「今日世界を覆っている国と国、民族と民族の間の格差は、情報に乗ってさらなる欲望を生み出さざるを得まい」

 

という都知事の言葉には、なんともいえない含蓄があります。

デビュー小説『太陽の季節』で「太陽族」という欲望を世に発信した作家のお言葉だから・・・?

そうは言っても、

 

 「株主を絶対化しているアメリカが主唱する市場原理主義なるものは、株主への忠誠が投資、投機を自ずと抑制するはずだという原理など人間の強欲さの前には通用しないという現実」

 

という都知事の分析には、相変わらずアメリカだけを悪者にしていれば気が済むといった偏狭な自意識を感じてしまうワタシ。

いくら人間が強欲だといっても、リスクさえ明示できれば少しは抑制されていくもんではないでしょうか。

ほら、「文明の発達した」東京のカラスを平気で駆除しちゃった都知事だって、ツバルという赤道に近い島国を訪れて初めて地球の抱えるリスクを実感されたわけでしょう。

まずは「カラス退治」から止めませんか?

 

都知事のエッセイの全体からは、明言こそされてはいませんが、神のように「全体がわかる」存在が欲深い人類にブレーキをかけなければ地球は助からない、とのお考えが伝わってきました。

 

ところで都知事、この手の話題の時にいつも引用される東欧の詩人(小説家?)・ゲオルグ(ゲオルギウ?)は、ルーマニアの方だそうですね。

 

ゲオルグは、言葉まで統制されてしまう共産主義社会に居た。

そんな社会にいたからこそ、何が大切かがわかったのだ。

だから共産主義のような統制が必要なのだ。

 

な〜んて三段論法は、よもや都知事はおっしゃらないですよね・・・。

地球にも人間にも犠牲が大きすぎます。

 

一人一人が現場に出かけて行って確かめなくてもそれぞれが持ち寄る小さな情報からわかってくる全体像というものがあるはず。

偉い誰かが「こしろ!*」って統制しちゃう社会作りより、情報の自由が保障されてる社会を維持することがやはり肝要と思うワタシです。(*まだナイツさんネタの影響下☆笑)

 

やっぱり、次なる何かを生み出すのは、

 

今日、リンゴの木を植える

 

とそれぞれが思う心持ちなんでしょうね、都知事殿。

 

 


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