october sky〜遠い空の向こうまで〜

謎主婦・風信子(ヒヤシンス@nobvko)のブログです。宜しくお願いします♪

2013年01月

「すいません、24時間コンシェルジュの待田純です。あの、私が身代わりになるんで、士郎君返してもらえませんか?」

「お前バカか? そんなことして何の得があるんだ、こっちに。」

「じゃぁ、外で話しませんか? ほら、トイレその部屋ないですし、もうそろそろ我慢出来なくなるんじゃないですか?」

「心配するな、さっき窓からしたから。とにかく、アユミがオレと一緒に帰るって約束するまでは、オレは絶対この部屋から出ないからな!」

「そんなこといわないで、出て来て話合いましょう。でないと、警察を呼ばなくっちゃならなくなりますよ」

「うるさいっ! そんなことをしたら・・・」

「あのう・・・雨の日はセールやってるんで、スーパーいってたらメールチェックするの忘れてて。」

「愛クン、遅いよぉ・・・って、あれなんで天野さんも一緒に? 新しいアパート借りたって聞きましたけど。」

「何でも、大切なものを置き忘れたっていうか、処分し忘れたものがあるらしくて・・・。」

「あの、天野さん。申し訳ないんですけど、見ての通りいま取り込み中なんで、後にしてもらえませんか?」

「迷惑なことはわかってるんや。けど、こっちも一刻を争うっちゅうんか、急がんと取り返しのつかんことになるっちゅうか・・・。」

「どんな大切なことか知りませんけど、こっちは子供の命がかかってるんですって。」

「そやから、ワシの忘れ物をはやく返してもろてやな・・・」

「外で何をごちゃごちゃいってるんだ! まさか警察を呼んだのか!? こうなったら、この宿に石油を撒いて火を点けてやるっ!」

ガラッ☆

「それや、そのポリタンクがワシの・・・」

「キャー! それだけは絶対止めて〜っ!!」

 

 

 

「どうして私は生まれてきたの?」と帯にあるが、その答えは「どーでもええわい とにかく(中略)ありがたく生きときゃええねん」だ。これが遠藤作品に通底する、揺るぎない生命賛歌ともいえる作風なのだ。

 

と、遠藤淑子の『プラネット』という作品について、2012年12月28日の朝日新聞デジタルに書かれていた松尾慈子(まつお・しげこ)さん。

 

はちょっと違うと思っています♪

最初の方で「どーでもええわい」とディール(という精霊で本当はロボット君)に明快に言わせているので、もテッキリ、これって作者の本音?ここがツボなの?と思わせられる展開でしたが、じっくりVOL.1を読んでいくと必ずしもそうではないことがわかってきます。

過酷な環境化で淘汰されずに適応するために必須な「ジャンプ進化遺伝子」。

人が住めなくなった地球を逃れ、遥か彼方の星に新天地を拓く必要に迫られた人類が、この遺伝子を移住先に運び込むために造りだした、遺伝子保持者のクローン、リースがこの物語の主人公です。

 

リースとコールドスリープ中の人類が乗せられた星間移住船は、ロボットたちが船の運行管理はもちろん、幼いクローンの教育をも担っています。

自分が何ものであるか知らされて戸惑うリースに、女ロボットのフランが、

 

「たとえほかの惑星へ行ってでも種を繁栄させようとするのは生物として自然な行為です。その可能性を高めようとするのもまた自然なのでは?」

 

と問いかけると、リースはそれに対しては寂しそうな表情でうつむきます。

先の「どーでもええわい」は、そんなリースに男ロボット・ディールがぶつけた台詞だったので、松尾さんはそれが作者の言いたいことだと思われたようです。

そして、「遺伝子による進化の操作に反対する人々」により、主人公リースを抹殺するプログラムを組み込まれたオスカーというロボットが悪役として登場するので、ますます「遺伝子による進化の操作」はこの作品では肯定されていると単純に思ってしまったのでは?

 

 

が、それは物語の3話目(Vol.1では2話目)に置かれた台詞です。

忘れてはいけないのは、主人公のリースは外見的には金太郎飴のような大勢のロボットにさえ、それぞれの個性があることを重んじている男の子だということ。

これから2体のロボット、フランとディールが「何人かのリース」と付き合っていくなかで、それぞれが個性を深化させ、組み込まれたプログラムではない独自の「世界の捉え方」を獲得していく可能性を、あの遠藤さんは描いてくれるはずだと、は感じました。

 

これってが昨年の3月22日に『野ブタ。とSEEDと共同幻想』のブログエントリで、SEEDの福田監督に勝手に投げかけた問いとまさしく同じ課題!

オスカーはSEEDのフレイと立場的に重なります。

コーディネーターという人工的に生まれた存在を大声で否定するフレイを描き、「世界の混沌を混沌そのままにすべて受けとめる覚悟」を示したDESTINYを、描いた後で「なかったことに」してしまった感のある福田監督のように、遠藤さんも結局は「世間」に配慮して「遺伝子による進化の操作」に賛成してしまう?

それともが期待するように、「オスカーたち遺伝子操作否定派」とは異なる立場で、それでも反対であることを示してくださる?

この、デリケートかつ人類の最重要課題(だとが思っている)に、遠藤さんはどう答えるのか。

 

『プラネット』の続きを、楽しみに待とうと思います。

はコミックが発刊されてから読む派なので、連載中のものはチェックしていません。)

 

 

 

 

何日か前のテレビのニュースで、今どきのLINEでやり取りしている人たちの画像を見ました。

「スタンプ」という大きめの絵文字だけで返信したりしているようです。

このままだとマヤになる☆(笑)

 

 

 

 

追記:ちなみに下のはの名前をひらがなでマヤ文字にしたものだそうです♪

 

 

 

*名前をマヤ文字にしてくれるサイト『 Information Space of Psychology 』様はこちら

 

 

純が創りたい「魔法の国」は

おじぃが創った小さなホテルに

初めてその原型を見たのだけれど

 

でも本当はホテルでも旅館でもなくて

困ってる人

不運な人

そして本来の自分を見失っている人

そんな旅人に開かれた場所なんでしょうね

 

純にとって人はみんな

手を差し伸べるべき愛(いと)しい人たち

まるで『レ・ミゼラブル』のビヤンヴニュ・ミリエル司教のように

「体系的思想の皆無と行為の豊富」な女の子

そしてかつてのビヤンヴニュ・ミリエル司教のように

「熱情的なまたおそらく激越」な女の子

 

「この話って願望全開だよね

こんな女の子なんていねぇよって・・・

でも願望だって判ってて

あえて作ってるんでしょって

それがハッキリしてるから

だからいいんだよねぇ」

 

って

昨日の『ビブリア古書堂の事件手帖』の

小山清の『落穂拾ひ』の回を観てたら思ったので

ちょこっと書いておこぅっと♪

 

 *青空文庫『レ・ミゼラブル』豊島与志雄訳より

『八重の桜』。

いろんな人の感想を読んでいて思うのは、ただの鉄砲好きなだけで、何がいけないのかなぁ・・・ということ。

幼い八重(9歳から12歳頃)が鉄砲に夢中になるのに、大義名分は必要ないと思うんだけど。

サトクリフが描いた『ケルトの白馬(太陽の馬月の馬)』の族長の息子・ルブリンだって、最初はただ絵を描くことが好きなだけで、描きたいから描いていて、我が部族のために、なんてこれっぽっちも思ってなかったんだけれど、後に侵略者が来て部族が滅ぼされ、生き残った者たちを北へ逃すために「その特技を生かして闘った」んですからねぇ。

八重もそれと同じだったんじゃないのかなぁ???

 

 

さて、ルブリンのように木の股に座っていた八重が、上から落ちて来た芋虫に驚いて砲術の本を落としたら、ゆうに5〜6間(約10m)は離れた道を行く川崎@長谷川さんの足もとに落下したエピソード・・・。

第一話の追鳥狩草鞋落下事件の時と言い、八重の脚力、腕力がまさに鬼神の如きものであることを表現するための、苦心の演出?

砲術の家に生まれ、家業に対する素朴な憧れと探求心をもって育った男勝りの少女、というキャラを立たせる意図があるなら、とても的を射た描写のはず。

なのに違和感溢れる絵になってしまった原因は、キャスティングのミス以外の何ものでもないと思う

綾瀬はるかとその子役の「可憐さ」が、ドラマを通して描き出すはずの八重の「豪胆さ」を見えなくしてしまっているようです。

 

第二話で、父の後について鳥を射ちにいったエピソードもそう。

死に切れない獲物に父親がとどめを刺す様を目の当たりにして、複雑な心境になったかのような描写になっていました。

ああ描いてしまうと、それでも優しい女の子を鉄砲に向かわせるものとは一体!? 使命感? 兄への強い憧れ? それとも・・・なんて、どうでも良い詮索がはじまってしまいます。

 

八重の家では、獲物の鳥が軒先にぶら下がっているのは日常の光景だったのですから、「息の根を止める」という行為に驚きと恐れの情が浮かんだかも知れませんが、それ以上に実射の臨場感の興奮が勝っていた、という演出の方が八重っぽいはず。

 

もし、南海キャンディーズの静ちゃんっぽい造形の子役さんや女優さんが演じていたなら、草履事件も本落下事件も、鳥射ち事件も、もっと大げさな演技をつけることが出来たでしょうし、そうすることで草鞋や本が遥か彼方に飛んでいったことも不自然ではなくなります。

主役は美形っていう縛りが、番組の首を絞めているのでしょうか。

 

一方、イケメン長谷川さん演じる「川崎」が、ギャグマンガ日和の曽良に見えて来た

白い着物だから?(笑)

 

あれっ☆川崎が、本落下事件のすぐ後で「いやぁ〜驚きましたよ。空(そら)から砲術の本が降って来たんですから」って言ってたぁ♪

 

    

 写真が回答者と違う。

 

 

 

解説:

柴門ふみさんの写真が最初に載っているので、回答は柴門さんだと思って読み進めていたら、最後に「回答者・熊木徹夫」の文字が☆

 

2013年2月19日追記:写真、直ってました。(笑)

『八重の桜』は、冒頭のゲティスバーグのシーンが新鮮な切り口で良かったです。

でも、「インディペンデンス・デイ」みたいにインパクト狙いの演出、って感じがなきにしもあらず。

八重の子役は本当に上手だと思いました。

でも、その子がキジ狩りの見物にと木登りして、落ちそうになって草履だけ落ちて、西田さんがビックリ☆というシーンに、かなりの違和感。

距離感も変だったし。

 

容保公を演じる綾野剛に期待していたんですが、ちょっと残念な感じ。

奥行きを感じない、というかなんというか。

長谷川博己は、現代から過去に飛んだ先生のように見えるし。

台詞の棒読みっぽさ(?)が、今回は仇となった?

著名な人物たちの台詞回しも、なんだか「出版社の人」が話してるみたいでピンと来ません。

 

物語のテーマになりそうな「ならぬこと(もの?)はならぬ」っていうのも、どちら側にいても使える言葉でおまけに統制的で、なんだかなぁ、と思う

「なせばなる」のように自律的な教訓の方が好きです。

 

白虎隊を、繰り返してはならぬ悲劇としてきちんと描いてくれるかなぁ。

第一話を観て一抹の不安が過りました。

子供が自ら死を選ぶ社会は、「ならぬことはならぬのです」と主人公には言ってもらいたい。

全体的に高級ファミレスみたいな食いつきの良さが感じられたんですけれど、としてはそこがなんか物足りない。

見極めるのはもう少し観てからにしようかなぁ。

 

今週の『純と愛』。

某感想掲示板に日々書き込まれる膨大な「主人公否定感想」を読んだ後で、昨日・今日の『純と愛』を観ると、より一層の感慨が湧いた

日本人のほとんど(?)がウザイ!と思って観ている熱血漢主人公が、そういう世のマイナス圧力にもめげずに、パートナーのお陰でまたその情熱を取り戻す様を見ることの嬉しさといったら!

例えるなら、シェフのこだわりが全面に出ている町のレストランの味わい♪

の場合、ドラマを観ていて心の底から楽しい、と感じることはそうそうあるものではありません。

 

*2013年1月17日追記分はピンク色で表示しました。

 

 

「世捨て人」さんの「臭い」描写が、朝ドラに似つかわしくないと大騒ぎになってる某感想掲示板。

朝食時間に、画面からトイレの匂いがしてくる(ような)のは勘弁なんだとか。

 

でもですねぇ、闘病していたり、介護中のご家庭は、案外平気なんじゃないかなぁ、この描写、と思った

なにせ父の介護の時も、義母の時も、気をつけてはいてもそういう匂いは避けられなかったものですから。

家族は本人が気にしないように、そのすぐ側で食事したり会話したりしてました。

平気な顔して。

 

看護士さんにとっても、そういう匂いは日常でしょうね。

 

病の人に寄り添う時には、そういうこともあるんだよね、と思った朝でした。

テレビでくもじぃの番組を観ていたら、なにやら見覚えのある風景が・・・。

気になってネットで調べてみたら、京都南禅寺の側にある真々庵というお屋敷で、新入社員だった頃、確かに中を拝見したことのある場所でした。

お屋敷の主の松下幸之助さんは闘病中で、入院先の病室までお見舞いに行く段取りも組まれていたようですが、その後間もなくお亡くなりになり、お会いすることは叶いませんでした。

 

別に有名人に憧れるタチではないのですが、そうとは知らずに著名な方と知り合いになって、後でビックリ☆なんてことを一度ならず繰り返してきた

つくづく「さまざまなタイプの魅力的で快活な人物に惹かれる」日生まれなんだなぁ・・・と実感する今日この頃です。

 

でも同じ占いには「一番必要なのはなごやかな家庭や落ち着きのある職場」ともあるので、今年こそはその線を意識して引き締まっていこうと思います。(笑)

「仏」が「ひきこもりの客」?

ほっとけ!って事?(笑)

 

月影先生、じゃなかった天草蘭さんって、あの宿屋の従業員としてはスタイル良すぎだよ、とはnobvkoの夫の弁。(笑)

このページのトップヘ