修和女学校に入学までに、『アンの夢の家』の中でアンの「キンドレット」の一人として描かれる女性・レスリーの境遇と似た経験をしてきた蓮子さん。
『花子とアン』では、葉山蓮子なる華族の令嬢を花子の「腹心の友」とおいているようです。
一方、ダイアナを連想させる醍醐さんのことを、いまのところ花子は「腹心の友」として見てはいない様子。
ところで、モンゴメリは「腹心の友」と「キンドレット」をどのように描き分けているのでしょう。
『赤毛のアン』の原書では、bosom friendとは何かと問うマリラにアンは、kindred spiritすなわち同じ魂を持つ者であると答えています。
つまりこの時点では、bosom friendとkindred spiritは同義なのです。
しかし、2巻目の『アンの青春』以降ではbosom friendという言い方が見られなくなり、kindred spiritsという表現しか出てこなくなります。
村岡さんは、『赤毛のアン』ではbosom friendを「腹心の友」「親友」と訳し、kindred spiritsを「気が合う」「ほんとうの仲間」「本気」「心が通じあってる」「腹心の友」「腹心」「腹心の人」「自分と共通の好み」」などと様々な表現で訳していますが、2巻目以降はkindred spiritsを「同類」と訳すようになります。(2巻の最初に一度だけ「同じ型」と訳しています。)
kindred spirit同士は初めから気が合う者同士であり、そんな間柄のダイアナとアンはさしたる衝突もなく友情を交わしてゆきます。
他のキンドレットたちとの間でも、アンは一切衝突を起こしていません。
それに比べ、『花子とアン』で腹心の友同士と描かれている花子と蓮子は、出会い頭に衝突しています。
まるで、石板事件を起こしたギルバートとアンのように。
中園さんはモンゴメリとは異なり、ぶつかりあった先に生まれる強い絆で結ばれた間柄こそが、腹心の友であると描こうとしているのかもしれません。
そのユニークな感性ゆえに、世間との折り合いの悪さを感じる幼いアンが、ひとり遊んでいた想像の世界の外で初めて出会った生身のキンドレットを、からだの実感を込めて「腹心の友」と呼びたくなったのは決して大げさなことではありませんでした。
マリラやギルバートのように、世間の側からアンとのアウフヘーベンを生み出す者たちとの、緊張と衝突、そして変化と深化に挫けずにいるためには、キンドレットたちとの間に感じる安らぎは大切な拠り所となります。
そう、いつでもそばに居て見守ってくれる母親のように。
kindred spiritsが「アン」の物語の本質である以上、モンゴメリがアンに世間的な成功ではなく母となる道を与えたのは当然のことでした。
さて、中園さんは花子にどんな道を歩ませるのでしょうか。