『真田丸』で描かれた信繁と梅について、

「彼(信繁)には「ことの結末」が見えていたのでしょう。近い将来に起こるビジョンが見える人が、往々にしてとる振る舞いがあります。それは、そのビジョンを現実にするために、「そうなるという前提」に立って自ら周囲に働きかける、【中略】彼女(梅)もまた、そのビジョンを現実にするために、「そうなるという前提」に立って自ら信繁とその周囲に働きかけ、果たしてその通りになりました。」


と3月29日に書きました。
こういうことって、実感のある方はどのくらいいるのでせう。

の場合、中2でアメリカに行く事になった時も、三鷹の高校や大学に入る時も、nobvkoの夫に出会った時も、就職の時も、成田に住むことになった時も(これは渡米する飛行機が離陸して、窓の外に広がる田圃を見た時に直観★)「そうなるだろう」というイメージがあったんですよね。
それは、期待でも望みでもなく、ただはきっとそうなるのだろうという予感。

そして、リヴァイアスの掲示板から、将来とても大切な何かが生まれるという予感も、電童の掲示板の後で新たなガンダムが描かれるであろう事も、「そうなるだろう」というイメージが確かにあったのです。
ただし、リヴァイアスや電童の掲示板にまさかドラマの脚本家(以下略)


こうした予感のようなものは、嬉しい事柄だけではなくて、例えば我が家の最初の猫だった初代メルが旅立つ時もそうでしたし、昨年キッキが寒い冬を乗り越えた末に動物病院の手術中に死んでしまった時も、その前からなんとなく「そうなるだろう」という予感のようなものがありました。
でもそれは避けようがないということもなんとなく「わかって」いて、その後は何をするのかということだけはしっかりと自覚していた・・・こうして文字にすると、一体は何を言っているのか。
ほとんどの方にはわからないことなのかもしれませんが。

父が亡くなる時も似たような感覚があって、それは突然の出来事だったのに、知らせの電話に「やっぱりそうなった」という実感があった
でも母の「特殊な」事情から、それを仕方なく受入れる事しか出来ない現実があり、しばらく(というか今も)「本当の」死に際に駆けつける事ができなかったことが残念でならないのも確かなのです。

で、3月31日にアップした「モンゴメリのうわさ話」というエントリ。
モンゴメリの「最期の」作品である『Blythes are Quoted』で、おそらくは「初めて」日の目を見た『余波
という詩について、長男か誰かの捏造では?と書きました。
でも最近はこう思うのです。
そうではなくて、あれはモンゴメリが見てしまったヴィジョンなのではないか、と。
モンゴメリは「見てしまったヴィジョン」をどこかに書き残しておきたかった。
悪い夢を逆夢とするために誰かに話すように、そのヴィジョンが現実とならないよう文字で書きあらわした上で、さらに封印するため墨でぬりつぶしてしまったのではないか、と。

そのヴィジョンというのは、おそらくは心配していた次男坊の「近い将来の」ヴィジョンだったのだと思うのです。

モンゴメリははじめ、あの詩をウォルターの残した詩として『Blythes are Quoted』に載せようと試みたかも知れませんが、それが出来ない事も知っていたはずです。
なぜなら『アンの娘リラ』でウォルターは「笛吹き」の詩だけを書いた事になっているから。
つまり、出版する事など想定していないからこそ、41編の詩について語り合う「ブライス一家の会話部分 brief vignettes」も全く推敲をしていない荒削りなままの台詞のような文章なのではないか・・・。


こんなことをnobvkoの夫に言われ、最初はどうかなぁと思っていたですが、今日なにやらすっと腑に落ちたので、ここに書き記しておこうと思います。