『何曜日に生まれたの』の公文竜炎が物語の中で描いた自己像・アンディキム。
物語の中では妹のアガサを、現実世界では黒目すいを助けた公文竜炎=大国主は、最後に三島公平に戻ることができました。
苗字と同じ静岡県の三島市の北東には、金太郎で有名な足柄山が広がります。
大国主の母親はクシナダ媛といい、足名椎(アシナヅチ)と手名椎(テナヅチ)から生まれていますが、私には中国の北方から紀元前に中央アジアの現トハリスタンの地へとやって来て長いこと占領していた大月氏の一派の、北インドに進出したクシャーナ朝がクシナダと、6世紀に中央アジアで活躍した突厥の人名に見られるアシナがアシナヅチと重なって見えます。
あまりに広域に渡るイメージとなりますが、古代史から創られた「神話」の世界は、小林惠子さんがご指摘されているように、そのようなものなのかもしれないと思う私。
さて、黒目すいのスイは、4世紀に中国東北地域で覇権を握ったという鮮卑族の慕容垂と同じ音です。
前燕の皇帝・慕容儁の弟である慕容垂。
慕容垂の何人目かの子に、日本のWikipediaでは一人だけ「〜〜王」と書かれていない皇子がいます。
その名は「柔」。
369年に前秦の苻堅の元へ亡命したと書かれている慕容垂ですが、柔もおそらく共に逃げたと思われます。(中国のWikipediaに「384年に苻堅に殺されなかったのは柔が宦官の養子だったため」とあるので、前秦にいたと推測。)
亡命時、柔はまだ9~10歳だったと思われますが、訳あって苻洪の養孫?となり苻洛に改名したと思う私。
苻洛の父親はどちらのwikipediaでも名前も分かりませんが、宦官だったということなのかもしれません。
苻洛のその頃の業績を見てみましょう。
376年(苻洛が柔であるならば16〜7歳の頃)に、従兄弟であり第三代皇帝でもある苻堅に派遣され代国を滅ぼし華北統一を果たしていますが、その功績でか、和龍鎮守*に任命されています。
*和龍は後燕の陪都・龍城(現遼寧省朝陽市)の宮殿名。
そして380年に龍城で大規模な反乱を起こしたという苻洛!
中国のWikipediaには「鮮卑、烏桓、高句麗、百済、新羅、休忍(おそらく加羅、あるいは倭国)」に使者を派遣しようとして失敗、(現北京の南に位置する)中山で苻堅軍に敗れ、涼州西海郡へ流されて、385年にそこで殺されたと書かれてあります。
380年に倭国や百済6カ国に共闘要請の使者を送った苻洛は、やっぱりその頃亡命先・前秦にいて20~21歳になっていた(であろう)柔ではないかと思う私。
前燕の首都・龍城(のちには後燕や北燕の首都ともなる)の地で反乱を起こしたというのですから。
さて、柔のその後に戻ると、亡命から15年後の384年に前秦から脱出した父・慕容垂は後燕を建国。
その年、柔は中国のWikipediaによれば従兄弟の慕容沖の元に身を寄せた後、再びそこから逃げて、387年に後燕の垂に合流したとあります。
父である垂から陽平王(山東半島の根元一帯)に任命された柔(おそらく27~28歳)は、389年(29~30歳)には「襄国の鎮守」を命じられています。
襄国は中国の襄国ではなく、現遼寧省にあった燕の襄平城*と「襄」の字が同じ。
なので、その一帯で北魏や高句麗、契丹からの防衛を垂から任されたのではないかと推察する私。
その過程でおそらくは倭国と共闘し始めたと考えられます。
*襄平城は、龍城の東、遼東半島の奥地に位置し、333年の前燕の初代皇帝・慕容皝の時代に遼東国の王都になっています。
中国Wikipediaには柔は393年に死亡とあります。
ですが、もしかすると柔はその後も生きていて、かつての帯方郡を通って百済に入り、加羅から迎えに来ていた(後の)神功皇后と共に日本列島に渡って、宇佐神宮で応神天皇になったのでは・・・という想像が膨らむのです。
なぜ神功皇后が柔を迎えたかというと、おそらく柔は日本書紀で景行天皇(諡は大足彦忍代別)からの求婚を拒むために「竹林に隠れた」*と記されている弟媛という女性と慕容垂との間に生まれた児ではないかと思う私。
*この場合の「竹林」は、『晋書校文8〜9巻』の『孝武帝紀』に苻堅の「苻」の字は元々竹冠だったと書かれていることから、慕容垂と共に前秦へ逃れた(隠れた)ことを意味していると思われます。
弟媛の大陸で付けられた二つの名のうち、一つ目の「可足渾」は「足に勢いよく交わった」という意味なので、足(いわゆるタラシ系)である慕容氏に嫁入りした、ということではないか。
二つ目の「長安君」は、長安が慕容垂が妻子を連れて亡命した先である前秦の首都であり、15年後に脱出した垂や柔とは別れて、弟媛だけその地に留まったのではないかと思います。
*「渾」の字は、慕容垂の祖父である慕容廆の異母兄・慕容吐谷渾がチベット系民族である羌族を従えて開いた吐谷渾の地と同じ字です。ちなみに前秦の苻堅は弟の苻融から「鮮卑族と羌族を大切にし、同族である氐族を蔑ろにしている」と苦言を呈されています。
八坂入彦の娘と記される弟媛は、姉である八坂入媛が景行天皇つまりは前燕の皇帝・慕容儁に嫁いで景昭皇后と呼ばれた(と私が推測する💦)ように、実は慕容垂に嫁いで柔を産み、最後は長安君と歴史に記されたのではないでしょうか。(ただし、中国Wikipediaでは長安君は慕容垂に「捨てられた」と書かれてあります💧)
柔が死亡したとされる393年から約10年後の404年(45歳?)に、倭国軍が帯方界まで「侵入」し、高句麗・広開土王の親衛軍によって「壊滅」されています。
元帯方郡地域に潜伏、あるいはその地で母・弟媛の故郷である倭国の軍と合流した柔は、その後百済あるいは加羅に入ったことが推測されます。
田道間守が、垂仁天皇のために橘の実を求めて常世の国に派遣され10年後に戻ってくるあの有名なお話のように、タジマモリの先祖と母系先祖で繋がっていると言われる神功皇后が、百済あるいは加羅(常世の国)で柔(橘の字に柔の字が入っている)を迎えたのかもしれません。
柔の字は、隋唐時代の古音で ”ńźjə̆u"(ンジェウ)。
柔らかで繊細な「うさぎ」だった黒目すいは、🌈レインボーパワ〜♪と友に謳える程強くなりました。
宇佐神宮に来た時は老人だったのに、いつの間にか3歳の子供になっていたと伝わる応神天皇。
私には、年取った垂と、その子である柔の、二重写しの像、表現だったのではないかと思えるのです。
そして『何曜日に生まれたの』の黒目すいが、燕と倭国を繋ぐ「ンジェウ」、虹(nizi)となった柔と重なる気がしています。
物語の中では妹のアガサを、現実世界では黒目すいを助けた公文竜炎=大国主は、最後に三島公平に戻ることができました。
苗字と同じ静岡県の三島市の北東には、金太郎で有名な足柄山が広がります。
大国主の母親はクシナダ媛といい、足名椎(アシナヅチ)と手名椎(テナヅチ)から生まれていますが、私には中国の北方から紀元前に中央アジアの現トハリスタンの地へとやって来て長いこと占領していた大月氏の一派の、北インドに進出したクシャーナ朝がクシナダと、6世紀に中央アジアで活躍した突厥の人名に見られるアシナがアシナヅチと重なって見えます。
あまりに広域に渡るイメージとなりますが、古代史から創られた「神話」の世界は、小林惠子さんがご指摘されているように、そのようなものなのかもしれないと思う私。
さて、黒目すいのスイは、4世紀に中国東北地域で覇権を握ったという鮮卑族の慕容垂と同じ音です。
前燕の皇帝・慕容儁の弟である慕容垂。
慕容垂の何人目かの子に、日本のWikipediaでは一人だけ「〜〜王」と書かれていない皇子がいます。
その名は「柔」。
369年に前秦の苻堅の元へ亡命したと書かれている慕容垂ですが、柔もおそらく共に逃げたと思われます。(中国のWikipediaに「384年に苻堅に殺されなかったのは柔が宦官の養子だったため」とあるので、前秦にいたと推測。)
亡命時、柔はまだ9~10歳だったと思われますが、訳あって苻洪の養孫?となり苻洛に改名したと思う私。
苻洛の父親はどちらのwikipediaでも名前も分かりませんが、宦官だったということなのかもしれません。
苻洛のその頃の業績を見てみましょう。
376年(苻洛が柔であるならば16〜7歳の頃)に、従兄弟であり第三代皇帝でもある苻堅に派遣され代国を滅ぼし華北統一を果たしていますが、その功績でか、和龍鎮守*に任命されています。
*和龍は後燕の陪都・龍城(現遼寧省朝陽市)の宮殿名。
そして380年に龍城で大規模な反乱を起こしたという苻洛!
中国のWikipediaには「鮮卑、烏桓、高句麗、百済、新羅、休忍(おそらく加羅、あるいは倭国)」に使者を派遣しようとして失敗、(現北京の南に位置する)中山で苻堅軍に敗れ、涼州西海郡へ流されて、385年にそこで殺されたと書かれてあります。
380年に倭国や百済6カ国に共闘要請の使者を送った苻洛は、やっぱりその頃亡命先・前秦にいて20~21歳になっていた(であろう)柔ではないかと思う私。
前燕の首都・龍城(のちには後燕や北燕の首都ともなる)の地で反乱を起こしたというのですから。
さて、柔のその後に戻ると、亡命から15年後の384年に前秦から脱出した父・慕容垂は後燕を建国。
その年、柔は中国のWikipediaによれば従兄弟の慕容沖の元に身を寄せた後、再びそこから逃げて、387年に後燕の垂に合流したとあります。
父である垂から陽平王(山東半島の根元一帯)に任命された柔(おそらく27~28歳)は、389年(29~30歳)には「襄国の鎮守」を命じられています。
襄国は中国の襄国ではなく、現遼寧省にあった燕の襄平城*と「襄」の字が同じ。
なので、その一帯で北魏や高句麗、契丹からの防衛を垂から任されたのではないかと推察する私。
その過程でおそらくは倭国と共闘し始めたと考えられます。
*襄平城は、龍城の東、遼東半島の奥地に位置し、333年の前燕の初代皇帝・慕容皝の時代に遼東国の王都になっています。
中国Wikipediaには柔は393年に死亡とあります。
ですが、もしかすると柔はその後も生きていて、かつての帯方郡を通って百済に入り、加羅から迎えに来ていた(後の)神功皇后と共に日本列島に渡って、宇佐神宮で応神天皇になったのでは・・・という想像が膨らむのです。
なぜ神功皇后が柔を迎えたかというと、おそらく柔は日本書紀で景行天皇(諡は大足彦忍代別)からの求婚を拒むために「竹林に隠れた」*と記されている弟媛という女性と慕容垂との間に生まれた児ではないかと思う私。
*この場合の「竹林」は、『晋書校文8〜9巻』の『孝武帝紀』に苻堅の「苻」の字は元々竹冠だったと書かれていることから、慕容垂と共に前秦へ逃れた(隠れた)ことを意味していると思われます。
弟媛の大陸で付けられた二つの名のうち、一つ目の「可足渾」は「足に勢いよく交わった」という意味なので、足(いわゆるタラシ系)である慕容氏に嫁入りした、ということではないか。
二つ目の「長安君」は、長安が慕容垂が妻子を連れて亡命した先である前秦の首都であり、15年後に脱出した垂や柔とは別れて、弟媛だけその地に留まったのではないかと思います。
*「渾」の字は、慕容垂の祖父である慕容廆の異母兄・慕容吐谷渾がチベット系民族である羌族を従えて開いた吐谷渾の地と同じ字です。ちなみに前秦の苻堅は弟の苻融から「鮮卑族と羌族を大切にし、同族である氐族を蔑ろにしている」と苦言を呈されています。
八坂入彦の娘と記される弟媛は、姉である八坂入媛が景行天皇つまりは前燕の皇帝・慕容儁に嫁いで景昭皇后と呼ばれた(と私が推測する💦)ように、実は慕容垂に嫁いで柔を産み、最後は長安君と歴史に記されたのではないでしょうか。(ただし、中国Wikipediaでは長安君は慕容垂に「捨てられた」と書かれてあります💧)
柔が死亡したとされる393年から約10年後の404年(45歳?)に、倭国軍が帯方界まで「侵入」し、高句麗・広開土王の親衛軍によって「壊滅」されています。
元帯方郡地域に潜伏、あるいはその地で母・弟媛の故郷である倭国の軍と合流した柔は、その後百済あるいは加羅に入ったことが推測されます。
田道間守が、垂仁天皇のために橘の実を求めて常世の国に派遣され10年後に戻ってくるあの有名なお話のように、タジマモリの先祖と母系先祖で繋がっていると言われる神功皇后が、百済あるいは加羅(常世の国)で柔(橘の字に柔の字が入っている)を迎えたのかもしれません。
柔の字は、隋唐時代の古音で ”ńźjə̆u"(ンジェウ)。
柔らかで繊細な「うさぎ」だった黒目すいは、🌈レインボーパワ〜♪と友に謳える程強くなりました。
宇佐神宮に来た時は老人だったのに、いつの間にか3歳の子供になっていたと伝わる応神天皇。
私には、年取った垂と、その子である柔の、二重写しの像、表現だったのではないかと思えるのです。
そして『何曜日に生まれたの』の黒目すいが、燕と倭国を繋ぐ「ンジェウ」、虹(nizi)となった柔と重なる気がしています。