october sky〜遠い空の向こうまで〜

謎主婦・風信子(ヒヤシンス@nobvko)のブログです。宜しくお願いします♪

カテゴリ: フリードリッヒ2世

Gのレコンギスタ。
3話目は普通に楽しめました。
今度のG、人の知性や理性に先立つ「感性」に思いっきりフォーカスして来るとミタ。

モビルスーツに逃げ惑う動物たちの描写が繰り返されたのもそうですが、もっと重要なのは調査部大佐の部屋に座るアイーダが、天井の幾何学模様のような文様を見て、あれ?と思っている風景。
イスラムの君主・アルカーミルと神聖ローマ帝国皇帝・フリードリッヒ2世の文通エピソードを思い出させますね。
キリスト教国の情勢を探るためにフリードリッヒ2世のもとに送った使者から、王宮の礼拝堂がアラビア調に内装されていたのを伝え聞いたアルカーミル。
その後、二人の間で幾何学や自然科学を話題とした書簡が交わされ、やがて10年間の和平がエルサレムで実現したというあの歴史的事実を下敷きにしているのかも。
そうだといいなぁ♪
(ちなみに、の感性と1〜2話目のアメフト(?)チアリーディングは合いません・笑) 

それから斬新だった操縦席のトイレネタ。
消音BGMをめぐる趣味談義(?)も、単なるネタではすまない重要な「感性」トピックでした。
欲を言えば、臭い&匂い対策についても触れてたらよかったのに。
ところで、3人も女の子がいるのにトイレ欲求に抗えない主人公にツッコミをいれてた白い人。
『クロ高』の北斗みたいでツボでした。(笑)

で、嬉しかったので1話目で気づいた事も書いておこうっと。
ラライア・マンディの「月曜日に見つけた」から「マンディ」って、アン・シリーズの『炉辺荘のアン』(←訂正『アンの娘リラ』)で長男のジェムが月曜日にもらってきた犬のマンデーというエピソードをオマージュしてるとミタ
富野さんも、『赤毛のアン』ファンだったんですね。(←2022年8月6日訂正。『ロビンソン・クルーソー』のオマージュ?未読です。)


 

ファーストガンダムの富野御大と、L.M.モンゴメリの作品の質は似てるって思ってるワタシ。

特に「幸福の王子」とか、御大がコンテをきった「ラスカル」とかを観ると、現在NHKでやってる「風の少女エミリー」のスタッフより遥かにモンゴメリの近くにいるような気がします。

もっとも、御大を御大たらしめた作品以降、絵で表現するより理屈に走って、どんどん遠ざかっているような気もします。

御大、初心(?)に戻ってモンゴメリをやってくれないかなぁ・・・
ロボットはナシで。(笑)


ところでワタシが最近、再確認していること。
それは「好奇心」の大切さ。
知らないもの、知らない相手をまずは知りたいと思う気持ち。
知りはじめて、相手に嫌なところが見つかっても、まだ知らない「好きなところ」を知りたくて寛容になれたり・・・。
その逆に、ずっと好意的に思っていた相手と直接話をしてみて違和感を覚え、ガッカリしたりして、でもそれはそれで面白かったり
・・・

そう考えると、モンゴメリが予言していたような「完璧な意思伝達手段」が出来てしまうと、好奇心の出る幕がなくなって、ウマが合わない相手とはハナっから衝突しちゃうのかもしれないなぁ、って思います。

そこまで行かなくても、TVのような演出された情報伝達手段ばかり利用していると、好奇心は湧きにくくなっちゃうのかもしれませんけどね。

例えばもし、アルカーミルがベネディクト16世のような容姿だったら。
そして、フリードリッヒ2世が演出された彼の姿をTVで見ていたら・・・。

「えぇい、馬引けっ!
 十字軍を出せっ!!」

てなこたぁ、ないか。(笑)

今から3年半前、NHKスペシャル「文明の道第7集/エルサレム/和平・若き皇帝の決断」を観たワタシは、なんともいえない感銘を受けました。
番組では、神聖ローマ皇帝として十字軍を指揮する立場にあったフリードリッヒ2世という王が、イスラムの君主と話し合いの末、10年に及ぶエルサレム共同統治を成し遂げたという史実を紹介していました。

11世紀、北方のノルマン人がイスラムの支配圏だったシチリアの島(現イタリア)に築いたキリスト教の国、シチリア王国。
フリードリッヒ2世は、初代王の孫でした。
ギリシャやイスラムの人々が交流する島で、父母の死後、わずか3歳にして王となったフリードリッヒは、王宮を抜け出しては市場で様々な言語をおぼえた好奇心旺盛な子供だったそうです。
20歳の時、突如神聖ローマ皇帝に選ばれたフリードリッヒは、ローマ教皇から十字軍の指揮を命ぜられます。
一方、アイユーブ朝の君主アルカーミルは、度重なる十字軍の脅威から神聖なるエルサレムの地を守ったイスラムの英雄でした。
アルカーミルは、新たな情勢を探らせようと使節をシチリアに送りますが、使節たちが案内されたシチリアの王宮の礼拝堂にはイスラムの文様が至る所にありました。フリードリッヒと面会した使節は、皇帝のアラビア風の装いにも驚き、それらを君主に報告しました。それから二人の統治者の間で文通が始まったそうです。
二人が語り合ったのは、幾何学や自然科学の話題。政治的な話題をあえて避けたのでしょう。
フリードリッヒが「息子の次に大事なもの」と語った天体観測儀は、アルカーミルから贈られたものでした。

しかしフリードリッヒ皇帝は、かつて教皇に宣誓した聖地の奪還を実行に移さねばなりませんでした。
いら立つ教皇の命令に、やむなく軍を率いてエルサレムへ向け出発しましたが、まもなく病におかされ戻ってきます。
激怒したローマ教皇は、フリードリッヒを破門。
窮した皇帝は翌年、わずかな手勢を率いてイスラムの君主である友に、エルサレムの譲渡を願いに行きました。
エルサレム近郊のヤッファでの5か月にわたる交渉の末、君主はイスラムの聖地を、皇帝はキリストの聖地を共に統治することで合意。
その激しい交渉の経緯が、バチカンの機密文書からようやく明らかになったそうです。

第1条「イスラム王朝の君主は皇帝がエルサレムを統治することを認める」
第2条「皇帝は神殿の丘を侵してはならない。神殿の丘はイスラムの法に基づきイスラム教徒が管理する。」
第4条「神殿の丘の威厳と尊厳を尊重するならば、キリスト教徒も神殿の丘へ立ち入ることが出来る」
第6条「皇帝は、イスラム王朝の君主に敵対する勢力に食料や軍隊を提供しない」
第8条「キリスト教徒がこの平和条約に反する行動をとる場合、皇帝はイスラム王朝の君主を守る」

これら条項が盛りこまれた平和条約は、1229年2月18日に締結され、その報告書がローマ教皇の元へ届けられたのでした。

こうして和平がなり、フリードリッヒが神聖ローマ皇帝としては史上初めてイスラムの聖地に足を踏み入れた際には、イスラムの人々はちょうど祈りの時間であったのに皇帝への配慮から祈りを取り止めようとしました。それに対して皇帝は、私はイスラムの人々の祈りの声を聴きたいと思っていた、と告げたのだとか。

しかし、フリードリッヒがシチリアに戻ると、そこにはローマ教皇が差し向けた十字軍が待ち受けていました。
「イスラム教徒と戦わずに和平を締結するとは悪魔と手を結ぶことだ」として。
フリードリッヒの教皇との戦いは、その後死ぬまでずっと続いたそうです。
一方、アルカーミルの死後、イスラムの側でも新たな勢力がエルサレムを占拠。
条約締結から10年のことでした。

 この文書は、ローマ教皇庁のバチカン機密文書館で最近になって発掘されたそうですが、資料が表に出たのはポーランド出身の前法王ヨハネ・パウロ2世の姿勢あってのものではないでしょうか。
いかにそれまでのカトリック教会が、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世の存在を否定していたかが、伺い知れるというものです。


いずれにせよ、イスラム教とキリスト教の間の溝は、今から800年の昔に、確かに越えられていたのでした。
ありのままに互いの世界を観ることのできた、二人のリーダーの間で・・・。
「友よ、寛大なるものよ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」これは、アルカーミルに向けたとみられるフリードリッヒの言葉だとか。
フリードリッヒとアルカーミルの交流は死ぬまで続いたそうです。
フリードリッヒは、キリスト教の世界で理解されない悲しみを、アルカーミルは、イスラム教の世界で理解されない悲しみを、共に慰め合って。

かつて、十字軍により聖地からイスラムを駆逐しようとしたキリスト教原理主義と、それを迎え撃っていたイスラム。
まるで現代の国際情勢の裏焼きのような図式のなかで見せた、フリードリッヒとアルカーミルの和平への営みは、中東において原理主義ではない「普通のイスラム」の復興を成し遂げようとしている人々の姿に通ずるものがあるように思われます。

ちなみに、フリードリッヒ2世のFriedrichは、「フリー」(pri-: 愛すること To love )と「ドリッヒ」(dori-:木 tree)から成ります。
「木を愛する」と名付けられた王も、木(あるいはdoro: 泥)の一族 ---- モンゴメリ言うところの「同類(kindred)」 ---- だったのではないかと思うワタシ。(2007年4月9日ブログ「泥の中から生まれる木」参照のこと)
そして、王の存在を明るい光のもとへと復活させたヨハネ・パウロ2世も、kindredではなかったかと・

このお話は、またの機会に♪(笑)

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