october sky〜遠い空の向こうまで〜

謎主婦・風信子(ヒヤシンス@nobvko)のブログです。宜しくお願いします♪

カテゴリ: 太陽の馬月の馬

私家版翻訳を再開する際にも書きましたが、英国の歴史小説家ローズマリー・サトクリフの”Sun Horse, Moon Horse”を訳し始めたのは今から8年前。

途中、色々なことが重なって翻訳作業が滞り、感想メールを下さった方とも不通になってしまってからは、早く進めなくちゃと気持ちばかりが先走っていました。

 

このiZaブログに日々のひとりごとをエントリするようになって早2年近く経ちますが、つくづく実感するのは、ブログを使うと自分が書いた文章に直しを入れるのも、それを保存するのもとても簡単にできることです。

本当に有り難い機能!

それに気づいたはこの6月、止ってしまっていた第7章の(2)からまた訳し始めました。

翻訳を進めるうちに、それまで訳し終わっていた箇所にも手直ししたい部分が出てきたりして、全体を見渡しながらの作業は素人のにとっては相当やりがいのあるものになりました。(笑)

 

サトクリフならではの世界を再現する試みは、とても楽しいものでした。

かなり勝ち気で視野の狭い女の子として描かれているルブリンの妹テレリにサトクリフの女性観を改めて感じたり、ダラとの友情に訳しながらなんども涙を流したり・・・。

 

ところで、私が翻訳する上で強く意識したのは、サトクリフが描き出した物語にできるだけ忠実に訳すことでした。

例えば、芝地に浮き出た白亜の白馬の鷹もどきの頭は、実物は白く輪郭が彫られた芝地に白亜が円く削られた目をしていますが、サトクリフは白亜の頭部に円い芝地の目があるように描いています。

そして、その「大地と空とがつながる、不思議な強い力の込められた場所」である「芝地の目」から、そのか細い茎をのばしている’harebell’。

これを、灰島かりさんは『ケルトの白馬』のなかで、白くくぼんだ目(←実物の白馬の目と同じ)の周りの枯れた芝の中に生えるブルーベルと訳されていますが、ブルーベルは春に勢いのある青い花を鈴なりに咲かせる種類だそう。

初秋にその命を白馬に注がんとするルブリンはきっと、もうじきその先に薄い青色のベル状の小花が咲くだろうと思っていたはずなので、は秋に咲く糸沙参(いとしゃじん)と訳しました。

 

 

そもそも、物語の白い牝馬は、東から西へと駆けているように描かれたことになっていますが、実際のアフィントンの白馬は北から南の方角へと向かっています。

( ↑ クリックするとGoogle Mapで現地へ飛べます♪)

サトクリフはサトクリフに見えるように描いた、ということなのでしょう。

ルブリンがそうしたように。

 

そうそう、世界史では "Atrebates"=アトレバテスと表記されるケルトの一族について、私はアトリベイツと表記しました。

「レバテス」の部分がローマ側からみた響きに聞こえたことと、サトクリフがこの物語の中で "Attribates" と表記していることから、そのようにしてみました。

実際にサトクリフがどのように発音したかはわかりませんが・・・。

 

 

また機会を作って、サトクリフのお話を私家版翻訳してみたいと思っている懲りないです。(笑)

 

私家版サトクリフ『太陽の馬 月の馬』はこちらからどうぞ♪

 

 

正午前になると人々が集まってきました。

白亜の丘陵の新たな主たちが丘砦からぞろぞろと出て来て、丘の斜面は青や茶色、サフラン色やケシの赤といった色とりどりの服でごった返しています。

真昼ではありますが、北向きの急な斜面には人々や灌木、小山やくぼ地の影が、夕暮れのように長く薄く伸びています。

しかし、長く暑い夏のせいで黄色く色あせた芝地から立ち上る、陽射しに蒸された草や低地に咲く香しい小花の混ざった匂いは、まぎれもなく真昼の匂いなのでした。

白亜を彫った牝馬を囲むように設けられた空き地に進み出たルブリンは、人々の群れが漂わせる強烈なジャコウ臭さにも勝る、その匂いを嗅ぎました。

そよ風が、白亜の丘の背の向こうから、谷間の森のひんやりとした香りを運んできました。

その香りを嗅ぎながらルブリンは大空高く舞うチョウゲンボウの鋭い鳴き声を聞きました。

耳障りなほど鮮やかでとげとげしい鳴き声が紛れる音など一切ないほど、群集は静まり返っています

ぼんやりと青い陽炎が、低地の村々を覆っています。

そのすべてが、そこで暮らして来たルブリンにとっては当たり前のことでしたが、これほど鮮明に、痛いほどに感じたことはありませんでした。

それはまるで、風や、陽射しに温む芝生や、チョウゲンボウ鳴き声をルブリンから隔てていた皮膚が一枚むけたかのようでした。

 

ルブリンは裸でした。

彼の身体には自分たちのものとは異なる赤と黄土色の文様が描かれ、額と目の回りには祭司によって黒苺の汁で線が引かれています。

二人の祭司に挟まれて歩くルブリンを、牝馬の前脚の間の芝地で二人の男が待っています。

一人はクラドック。

テンの尾っぽの房飾りのついた、血のように赤い儀式用の羊毛のマントを身にまとっています。

もう一人は祭司長。

他のアトリベツの祭司と同じように、あまりに豊かな神への貢ぎ物のおかげで、どんぐりで餌付けされた豚のように太ったその身体を、祭司だけが身につけることを許される純白の布に包(くる)み、ナラとイチイの冠を被り、黒光りする青緑色の石剣を手にしています。

 

ルブリンにはその石剣が、風や、陽射しに温む芝生や、チョウゲンボウ鳴き声と同じように、自分の一部分のように思えました

けれども、見知らぬ祭司の手によって死にたくはありません。

それは取引きにはなかったことです。

 

ルブリンはクラドックを観ました。

 

「これは、あなたと僕の間のことがらだ。」

 

「確かに、お前と俺との間のことがらだ」クラドックは応じました

「我が民の間では、神の儀式を祭司が執り行わぬことなどあり得ぬ。しかし、これは族長が扱うべきことがらだな、兄弟よ。」

 

そう言って彼が脇に立つ祭司長に手を差し出すと、祭司長は異様な形をした黒光りする石剣をその手のひらに乗せました。

 

ルブリンとクラドックは、共に並んで白亜もあらわな牝馬の胸へと進みます

集まった祭司たちの間から流れ始めた低くリズミカルなつぶやきは、唱和する群衆の声とともに徐々に大きくなり、やがて祈祷と凱歌がひとつになりました。

弧を描く牝馬の首は王の道のようであり、そこを進むルブリンはまるで戴冠式へと向かっているかのようです。

不思議なハヤブサもどきの頭まで来たルブリンには、その堂々と見開いた目が、太陽と月と天を巡る星と世界を吹き渡る風をしっかりと仰ぎ見ているように思えました

 

「円く残した芝生、それだけのことさ

 

ルブリンの中で、自分自身の愚かさを静かに笑う声が聞こえます。

しかし、彼のもっと奥深くにあり、そこが大地と空とがつながる、不思議な強い力の込められた場所であることを知る別の何かは、こう言うのです。

 

糸沙参(いとしゃじん)が生えている。こんなに素晴らしいことはない。

 

そしてルブリンはその身を横たえました

 

「覚悟は出来ているか?」彼の横に膝をついてクラドックが尋ねました。

 

その風焼けした顔の細められた青い瞳に、ブルリンは微笑み返しました。

 

「出来ている。」

 

彼の上には風にさざ波立つ高い空が広がり、大地の下からは暖かでどっしりとした力を感じます

黄土色の草に混じって生える糸沙参(いとしゃじん)の、糸のように細い風に揺れています

遥かな時と場所の彼方から北の山々と海に挟まれた牧にたどり着いたルブリンの民の、精魂尽き果てた末の喜びが伝わってきます

 

「兄弟よ、自由になれ」クラドックは言いました。

 

振り下ろされた剣が、陽の光に煌めくのが見えました。

 

〜完〜

 

 

 

ダラは、全員がつつがなく出立できるよう、一行の殿(しんがり)として指揮を執っていました。

彼が別れの挨拶もなしに行ってしまうのも仕方がない・・・もし自分が彼の立場だとしてもそうするだろうから・・・そうルブリンが思っていると、一度はポニーに積んだ敷物の束を放り投げたダラが、門の中へと引き返して来て両腕をルブリンの肩に回しました。

哀しみに我を忘れ、タブーを犯すことなどお構いなしで。

 

ひと息継ぐほどの間、ルブリンは身を強張らせて、まるで門柱の若木のように棒立ちになりました。

そして5歳の時からずっと心の友だった、兄弟以上の仲だったダラの肩に腕を回しました

二人はしばしの間、互いをしっかりと抱き寄せ、相手のぼんのくぼに顔をうずめました

 

「心の兄弟よ」ダラは言いました。

 

「林檎の木の国で俺のことを待っていてくれよ明日のことかもしれないし、北の地で槍使いたちの長となり、馬に乗ることも剣を持つこともできぬほど老いぼれた後かもしれないが、俺が行くまで待っていてくれよ。そして俺のことをずっと忘れないでくれ、俺もお前を忘れないから。」

 

「忘れるものか。」ルブリンは言いました。

 

やがて二人は離れると、ダラはそばで控えていた男が曳くポニーの方へと向き直りました。

そして、その背に跨がると、片手を振り上げ出発を合図しました。

馭者に鞭を入れられた馬たちは前のめりとなり、2台の古い荷馬車の車輪が回りはじめます。

男も女もそれぞれの包みを抱え上げ馬追いは馬を追い始めます

どこかで子どもが、生まれたばかりの子羊のようなか細い声で泣き始めました。

 

遠ざかる一行を見送るために、ルブリンは北側の塁壁の上にあがりました

彼は、糸くずの束のような男や女たち、今日一日も持ちそうにない2台の古い戦(いくさ)用荷馬車、みすぼらしい馬の群とそれを追う馬追いたちが、丘陵の急峻な谷や崎の間をしなる鞭のように曲がりくねる道を見えかくれしながら谷底まで進み、古(いにしえ)の馬の民の道を横切って、北へと続く道へと踏み出すまで見ていました

彼らはどこかで後ろを振り向き、丘の斜面の白い牝馬を見るはずです。

しかし、それからはもう二度と振り返らずに、まっすぐ北だけを見て、山々と海に囲まれた遥かな牧へ夢を追っていくのです。

 

一行の数はとても少なく、一番幼い子供を入れても200名にも足りません

ルブリンは、旅の途中で何人生まれて何人が死ぬのだろう、と思いました。

どれほどの時をかければ、目的の地に辿り着けるのだろう。

一年

二年?

それとも、半生をかけることになるのだろうか

本当に辿り着けるのかどうかすら、ルブリンにはわかりません。

 

一行の後方で砂塵が白く巻上がり、彼らの足跡は林の中へと伸びていきます

 

ルブリンは砂煙が晴れるまで見送っていました

 

タゲリの鳴き声と共に朝がきました。

煙るように森の中に低くたれ込めていた霧が、太陽の光で小さくちぎれ、すじのように散っていきました。

丘の斜面の白い牝馬はその見開いた目で朝の空をじっと見返しています。

砦の大手門は、イケー二の民のために開かれていました。

3人の馬追いはすでに騎乗しており、馬の小さな一団は檻から連れ出されています

荷物と幼い子供たちは、旧式の戦(いくさ)用の荷車や小さくて頑強なポニーの背の荷かごに積まれています。

男も女も皆、包みやを抱えています。

老いぼれヤギを連れている者もいます

男たちの何人かは、この数ヶ月のあいだ手にすることのなかった槍を抱えています。

女たちは、色が褪めたぼろのガウンを帯で腰高く締めて、旅装束としています。

けれども、そこには年寄りはいませんでした

希望を失った老人たちにとって、囚われの一年はあまりに過酷なものだったのです

もはや置き去りにされるか足手まといになるかしかないことを知り、その時を待たずに毒汁を飲んだ者さえありました。

 

竪琴弾きのシノックが謡った馬追いはこんなものじゃなかった、そうルブリン・デュは思いました。

白亜の丘陵に轟き渡る戦車車輪の音、辺り一面を覆う馬の群、女や子供を乗せ、家財道具を運ぶ荷車を引く雄牛追い立てられる肉牛の鳴き声。

でもきっと、今度の旅の方が勇壮なものなのです。

囚われの身となり骨の髄まで打ちのめされた、わずか一握りの戦士と女たちのすり切れた希望だけを携えての旅立ち

 

ポニーの荷かごの中の子供が丸くまじめな眼差しでルブリンを見つめています

やせた犬がルブリンの踵(かかと)をくんくん嗅いだかと思うと、主人を追って静かに駆けていきました。

いよいよ、みんな行ってしまうのです。

彼らは、開かれた大手門に立つルブリンのほうを見はしましたが、交わす言葉を探すことが出来ませんでした。

 

最後にテレリが、後ろで束ねた金色の髪から白い額にかかる解(ほつ)れ髪を手で梳き上げながら、彼のもとへとやって来ました

彼女はもう少女ではありませんでした

ルブリンの目に映った彼女の身体、触れた者の手を切るほどに美しく引き締まりその瞳はルブリンを見ていながら、すでに遥か彼方へと向けられているようです

 

「無事に新しい牧へと辿り着けるように」

 

ルブリンは、テレリがかける言葉に困っているのを見て、そう言いました。

テレリはルブリンに少し近づきましたが、両手を後ろに組んで彼には全く触れません。

 

「たどり着けるわ」彼女の声は確信に満ちていました。

 

「そして、あれがあなたの業(わざ)だということも忘れない。荷車の中の子供にはもう、竪琴で謡う才を得ている者があるかもしれないし、これから生まれてくるのかもしれない。もしこれから生まれてくるのなら、それはダラと私の子であってほしいわ。どちらにせよ、北の牧についた私たち一族に竪琴弾きが再び現れ、北への馬追いを、ルブリン・デュを謳う唄作る時がきっと来ることでしょう。

 

彼女はまた少し体を動かしましたがすぐに後退り、ルブリンには触れることなく向こうへ行ってしまいました。

 

もう長いこと、ルブリンに触れる者も、彼と同じ皿で食べる者もありません。

皆がルブリンの影を踏まぬよう意識始め、深い孤独に包まれた頃からずっと

そしてもうすぐ、もう間もなく皆が去ってしまうのです。

夏の白い砂塵に煙る中を曳かれて来た馬たちが、丘砦の近くに囲われました。

色々な馬が混ざった小さな群れを眺めたルブリンは、生え抜きではないけれど役立たずというわけでもない、クラドックは公平に選んでくれた、と思いました

は濃い茶色の赤狐色のが一頭ずつ自ら檻に入り牝馬は仔馬を孕んだものも含めて20頭かそれ以上道中の厄介物になりそうな縮れ毛の二歳馬に、ポニーの群れが5頭・・・・。

 

ラマスの前夜祭では、丘砦の西側の白亜の丘の峰高くにともされた一対の篝火の間を、選りすぐられた牛と馬の群が、翌年豊饒を願う祈りとともに追われていきます

静かに響くひずめの音と、それを追い立てる馬飼いたちの叫び声とともに、暗闇の中からその姿を現す牛や馬たち。

ルブリンは、ラマスの火に集められていた彼の民に混ざって、かつて幾度となく見てきたその光景を眺めていました。

たてがみをたなびかせた荒々しい目の種馬たちや、脚元に仔馬を従え脅えた様子の牝馬たちが、峰の頂上で暗闇から突然姿を現したかと思うと、めらめらと赤く燃える炎へと進んでゆき、また再び暗闇へと姿を消します。

ルブリンはふと、頭を振り上げたてがみや尾を翻して流れゆく群れの中に、闇から現れた白い牝馬が炎の明かりに乳色の背中を煌めかせ、そしてまた闇へと消えていくのを見たような気がしました。

それはまるで、生涯を通じて彼の一部であった白い夢の牝馬、そして今はラマスの火が微風にたなびく峰の下、槍のひと投げほどの場所に白亜から切り出されて彼を待っている白い牝馬の幻のようでした

 

 

全ての馬の最後に、赤狐色の種馬と最良の牝馬3頭が、今年の豊饒を北へ運ぶことを願う祈りとともに火の間を通りました。

その後を牛が通り終え、火の勢いが衰えはじめると、若い戦士たちの何人かが女たちの手を取って薄れゆく火灯りのなかへと走り出て、丈夫な男子が授かれるよう祈ります。

ぼろぼろにやつれたイケーニの男たちの間から歩み出たダラは、テレリの手をつかむと一緒に走り出し、赤々と輝く燃えさしを二人して蹴散らしていきました。

テレリは、自由を目前にしてにわかに溢れ出した喜びのままに、まるで春先のタイシャクシギのような声を上げています。

他のイケー二もそれに続きました。

新しい牧での子宝と豊饒を願って。

 

ルブリンは彼等を見ていました。

 

炎は小さく低くなり、灰の中のあちらこちらで火の粉が花びらのように舞っています

赤い炎の揺らめきで見えなくなっていた夜の空が、星の瞬きとともに戻ってきました。

旅の空に、狩りの空に、牧の空に瞬く星たち。

ルブリンはその夜が空であったことがうれしかったのでした

 

作業は終わりに近づき、実った麦の穂は刈入れの時を迎えました。

麦の最後の一列が刈り取られた日、ルブリン・デュは自分の仕事の最後の仕上げとして、鳥のような奇妙な形をした馬の頭に敷き詰められた、真っ白な白亜を平らに均(なら)しました。

 

翌朝、ルブリンの一族と舞い戻っていた古き民が麦を束ねる作業に駆り出されている間、ルブリンはあの見晴らしの木へと向かいました。

作業を始めた春先には紫に萌えていた雄大な魔女楡の枝々も今では、夏の終わりに色を深めた広いで幾重にも覆われています。

ルブリンは、谷の向こうを見渡して自分の作り上げた物を眺めるために二本の枝を両脇に押し分けました

 

そこには、彼が夢で見た白い牝馬がいました。

道のりの遥かなことを知っているが如く、緩やかな足取りで駆ける白い牝馬のしなる首と長くたなびく尾は、丘陵のなだらかな起伏に映えて、まるで世界の始まりからそこにあったかのように、そして世界の終わりの時までもずっとそうあり続けるように見えました。

ルブリンは、まるでハヤブサのような頭と、胴体から離れて大きく開いた二本の脚を持つ、牝馬の異様な姿を眺めました。

しかしその異様さこそが、彼女に愛らしくも軽やかな動きを与え、炎と月明かり、力と美の化身たらしめているのです。

遠くの枝から眺めながらルブリンは、夢の実現が間近であること、死にゆく者のつとめが完璧に成し遂げられつつあることを、神の啓示を受けたように悟ったのでした

 

今やルブリンに残されたなすべきことはただ一つ。

 

自分が跨がるこの偉大な枝の生命力を感じることはもう二度とないのだと思いながら、ルブリンは友に別れを告げるかのように、魔女楡のざらざらとした木肌に手をのせました

それから地上に降り立つと、波のように盛り上がる丘陵と、彼の一族がその強さを誇った丘砦の方に向き直り、その全てを見納めてから、用意が出来たことを告げるためにアトリベイツのクラドックのもとへと向かいました。

 

ルブリンは、馬小屋の前の庭で新しい戦車を検分している族長を見つけました

馬小屋の軒下では、ツバメたちがさえずりながら、ゆすり蚊の群れの中へ矢のように低く飛び交っています。

 

「クラドック族長、あなたの前線の標(しるし)、白い馬が完成しました。行って確かめていただけませんか。」

 

くびきの横木をはめる生皮の綱の具合を確かめていたクラドックは、顔を上げると首を横に振りました。

 

「俺が夏のあいだ中ずっと、馬が出来上がっていく様子を見ていたことは、お前も良く知っているはずだ。いまさら確かめに行くまでもあるまい。」

 

「では仰って下さい。あれでよろしいですか?」

 

「初めの馬でも良かっただろうな。」クラドックは言いました。

 

「しかし、俺たちはともに馬の民だ。お前も俺も。」(この中庭でまさに同じ言葉を言った父の記憶がルブリンに甦りました。その時もツバメが矢のように低く飛んでいました。)

 

「良い牝馬は見ればわかる。あの馬は、馬の群れには多くの仔馬を、そして女たちには丈夫な息子を授けてくれそうだ。よし、あの馬で良いだろう。」

 

「それでは、これから我が民のところへ行き、出発準備をするよう命じます。」

 

そう告げるルブリンに、

 

「これから四日間、ラマスの収穫祭が執り行われる。ラマスの火が冷えた時、馬を揃えて門を開き、お前の民を解き放とう。」

 

と族長のクラドックは言いました。

 

木釘で打ち付けた輪郭が出来上がった日の夕暮れどき、ルブリン・デュは馬の鼻先からぐるっと全体を一巡りして、また鼻のところまで戻ってみました。
魔女楡の木から眺めたわけではないので、細長い生皮が象(かたど)るすらりとした形を見渡せたわけではありません。
しかし、芝を踏む足の感覚は、全てうまくいっていることを物語っています。
 
「明日、芝土を剥がし始めよう。」
 
ルブリンは、少し離れて後ろをついてきたダラに言いました。
 
「そんなに急いで?」
 
のどの奥がかすれたような声で、ダラが応えました。
ルブリンは西の方を見ています。
長くたなびく羽根のような雲が、沈み行く陽の炎に触れていました。
 
「取り除くのは芝土だけじゃない、白亜の表面も全て削って、真っ白な部分が出てくるまで掘り出さなくてはならないんだ。それにはかなりの時間がかかると思うし、作業をやり直さなければならないこともあるかもしれない。天候が荒れることだってあるだろう。それでも全ての作業を収穫までに終わらせなくちゃ、今年のうちに北へ向かって旅立てない。やれるうちにやっておかないと。」
 
こうして次の朝、芝土の切り出し作業が始まりました。
ルブリン自身が青銅の斧で輪郭を切り出し、ダラや他の男たちは小高い牧草地を覆う、クローバーやタイムやアイブライトなどの小さく鮮やかな花が散りばめられた緑の草を剥いでいき、女たちはそれを大籠に積んでは、遥か下にある草で覆われた深いくぼ地へと運んで行きました。

 

来る日も来る日も、男たちは根堀り鍬と鹿角製の幅の広いつるはしで白亜を掘り起こし続けました

土でくすんだ浅い層の白亜を取り除き、純白な白亜が現われる太ももほどの深さまで掘り下げるのです

女たちは、取り除かれた白亜をいくつかの場所へと運び集めます。

さらに、真っ白な白亜を掘り出して脇に取りのけておき、集めておいたくすんだ白亜の山を全て埋め戻してから、その上に撒いて被せました。

 

まる一日かけてたどり着くほど離れた土地に住む者たちは、南の地平線の丘の斜面に奇妙な形の巨大な何かが作られているのを眺め白亜の丘陵の民は何の魔法を行なっているのだろうと不思議がりました。

その夏の気候は穏やかで、作物を台無しにする強い風も吹かなければ雷雨もなかったので、丘陵の側面にある麦畑の大麦は丈高く育ち、麦の穂はずっしりと実りました。

そのうえ、はらんだ牝馬も丈夫な仔馬を産み落としたので、人々は馬の魔法のお陰だと、曾孫の代まで白い馬の夏』のことを語り継いだのでした。

 

ルブリンたちは、石灰を塗った革で印を付けた場所に若木を置いていく作業を、もう一度やりなおし始めました。

ルブリンは、丘の急斜面と作業を見晴らすあの木の間を、行ったり来たりしています。

そこに描き出される線は、まさにルブリンがエポナの女神に触れられたかのごとく、全く狂いはありません。

いまや前のようなうわべだけの馬ではなく、かつて彼が捉えようとした飛び交うツバメの動きや、かき鳴らされる竪琴の調べの魔法の絵に、とても近づいたものになっています。

 

一本の長く麗しい線が、首から背へ、そしてたなびく尾へと途切れることなく流れ、すらりとした胴はいちばん広いところでも大股歩きで4歩強の幅なのに対して、点で描かれた耳から尾の先端までは大股歩きで120歩以上もあります。

頭の形はハヤブサのそれに似ていますし、互いに遠く離れた場所に配された2本の脚は、胴体と接してさえいません。

それで良いのです。

雲の影が漂いヒバリの歌が響く丘の高みに作っているのは、形だけの馬ではないのですから。

彼が作っているのは馬の、エポナの女神そのものの力強さや美しさ、そして未来へと伸びゆく力なのです。

征服者たちがそのことを知ることは決してないでしょうが。

 

ダラとほかの者たちは、自分たちがやっている奇妙な作業について何も言いませんでした。

全体を見渡すにはあまりに近すぎて、草の上にまき散らされた印しか見えない彼らには、それが何なのか知りようがありません。

北に向かって旅立つ日に、谷の向こうから振り返って見るまで、それを知ることはないでしょう。

彼らはルブリンの指図どおりに働きました。

まるで祭の命令に従うがごとく、牛革を石灰が塗られた若木に再び置き換え、牛革をぐるぐると渦のように切って槍のひと投げの距離よりも長い幅広の紐を作り、それを若木で引かれた大雑把な下書きと置き換えて木釘で留め、より精巧な輪郭を形作りました。

そうした作業が進むなか、誰もが、テレリやダラでさえも、ルブリンの影を踏まぬよう気を配っていました。

太陽が作る影も、月が照らし出す影も、夕闇に沈む檻の中でかまどの火明かりが投げる影さえも。

そうしてルブリンは、以前とは違った意味での孤独を一層募らせていったのです。 

 

ルブリンが檻に戻るころには夕闇はすっかり深まり、かまどの火が辺りを照らし始めていました。

問いかけるような皆の視線がルブリンに注がれる中、ダラは繕っていた革ひもから目を上げて尋ねました。

 

「白い馬は上手くいっていたか?」

 

「いいや」ルブリンは応えました。

「そうでもない。クラドックには別に文句はなさそうだけどね。」

 

「それが何より肝心なこと。」テレリが女たちのなかから口を挟みました。

 

「いいや」ルブリンはもう一度否定しました。

「それはたいしたことじゃない。」

 

ルブリンは、かまどの火の明かりに浮かぶ一族の民の顔ひとつひとつを、はっきりと見極めるように見渡しました。

この者たちのために自分は死んで行くのだと思いながら。

 

「ほかに何があるというの?」

 

テレリは、まるで何かを封じ込めようとするかのごとくに食って掛かりました。

 

「仔馬の母なるエポナの神にふさわしいかどうか、それが肝心なんだ。」ルブリン・デュは応えました。

 

馬に息吹を注ぐため、最後は僕の命を捧げて仕上げる。だから、僕が死ぬに値するものかどうか、それが肝心なんだよ。」

 

ぼろ切れのような姿の者たちの間にかすかなざわめきがおき、そしてすぐに止みました。

ざわめきの中に驚きの様子はありませんでした。

彼らもまたそのことを知っていたのです。

沈黙のなか、ひとりダラだけが繕いかけの革ひもから視線を上げると言いました。

 

「俺が新たな族長だ。一族が生き延びるために死ぬのは、俺の役目だ。」

 

「いいや」ルブリンは言いました。

「新しい族長である君の、君とテレリの役目は、北にある新たな牧へと一族の皆を導いていくことだ。僕は古い族長の息子で、馬の創り手なんだ。これから為すべきことエポナの女神が示してくださった。死は僕の務めなんだ。」

 

今やそれは、まるで朝に花を開いた白い昼顔が、夕べにはその日限りの命を全うした花をつぼみの形へと閉じるような、損なわれることもなければ逃れることもできないひと巡りのように、とてもはっきりとしたことなのです。

ルブリンはダラの隣に腰掛けました。

 

「明日、もう一度最初から始めよう。」

 

「不思議なものだな」クラドックは言いました。

 

「ここからだとさっぱりわからんが、谷間の向こうからはちゃんと馬に見える。首尾よく進んでいるようだな。」

 

自分を見下ろす、目障りなほど青く輝く瞳を見つめながら、ルブリンは思った通りだと悟りました

もしルブリンが望めば、馬はこれで終わりにすることができるのです。

そしてルブリン以外は誰も、契約が果たされていないことを知る由もないのだと。

夢を裏切ったことを知るのは、ルブリンだけ。

歌であれ、剣であれ、丘の中腹白亜を切り出して描く馬の姿であれ、新たなものを生み出し世界を創る者たちの前に映る光景に、目を塞ぐのだ

 

ルブリンは首を横に振りました。

 

「うまくなんて行っていない。この馬には命が宿っていない、こんな馬じゃ駄目なのです。でも、今はどうすればちゃんとしたものができるかわかっている。だから明日になったら、始めからやり直します。」

 

「もし、俺はこの馬で十分満足だと言ったら?」

 

「僕も満足させるものでなくては。」ルブリンはそう言うと、急に微笑みました。

 

「そうです。僕が馬を作り、あなたが良いと思えば我が民は自由になれる、そう契約を交わしました。でも、もしこれが僕の作り出す最後の魔法の絵になるのなら、僕の中の最高のものを作らせてください。」

 

身を切るような沈黙が少し流れました。

赤い種馬が頭を振り上げ、乗り手が手綱を引いたかのように、急な芝地を横へと脚を踏み出しました

 

「僕がただの時間稼ぎをしてるとでも思いますか。」ルブリンは言いました。

 

「ほんの少しでも生き長らえようと? それじゃあ死んでも死にきれない。」

 

ついに二人の間でその事が明らかなものとなりました。

 

首を横に振るクラドックの表情は、自分もそのことが目の前に現われるまでずっと闇の中に潜めておいたのだ、そうルブリンに告げています。

 

「馬が完成したら、それが僕たちのどちらにも良い出来だと思えたとき、僕の準備は整う。」ルブリンは言いました。

 

白亜の丘の空高くヒバリが歌っています

夜風にゆれるように流れるように歌っています

クラドックは言いました。

 

「祭らは求めてはおらん。」

 

「彼等には要らぬことでしょう。」ルブリンは目に入る暗色の髪を後ろにかきあげました。

 

「これは族長が決めることだとわかっているのです。あなたと僕の間の、そして一族と神々の間の決めごとだということを。」

 

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